ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

2回目の入院が終わって思うことーポンコツ日記

折り合いをつけるとか、つけないとかに関して

1回目の2ヵ月に渡る入院生活の中で、つらつらとあーでもない、こーでもないと頭と心のあちらこちを使って、現状をこねくり回していた。
感情側の言い分として言えることは、あの入院でどん底までいったということ。自分が患った大腸がん、しかも肺と肝臓に転移していてステージⅣ(ただし末期ではない)という現実、しかもストーマ(人工肛門)になったことは、普通に考えて、頭がおかしくなるよ。耐えられない。
事実、当時書いたメモにも、"耐えられない"という言葉が、何回も出てくる。抗癌剤治療による副作用のきつさも、それに輪をかけた。大の大人が、まともにトイレもいけなくなるくらい動けなくなるって、まず恐怖しかない。自尊心も傷つくし。 しかし私の性格的に、がんなんかに負けないとかはならなかった。私は勝ち気でも負けず嫌いでもないのだ。 そもそもがんは人じゃないから、競い合うものでもなかろう。じゃ、どう考えたかというと、これまでの自分とは違う人になったんだと思うことにした。それが考え方として、一番着地するのに無難な気がする。ビジネスでいうところの、ソフトランディングってことだね。 今までとは違う人になったんだから、前みたいにあれができない、これができないとか言っても意味がないんだよってね。


なんで違う人になったか? 理由は頑張って数えればいくつもあるんじゃない?体を酷使したとかさ。実際そうだつたし。だから仕方ないとしか言いようがない。どんなにわめいても、過去に戻れるわけもないし。

ただ胸の中にどうしようもなくわきあがる、寂しい気持ちは持ち続けておこうと思ってる。マイナスの感情とはいえ、その寂しさは私のもの、私だけのものだから。それでいいんじやないかな。今のところ。

もうすぐ2回目の入院をするーポンコツ日記

2月も終わりに近づいている。私が何をしているのかいうと、何もしていない、のかな?どうなんだろう。

格好つけてるわけでもなく、頑張って生きてますよ、とでも書けばいいのかな。

 

先日病院に行ってきた。担当医と再会し彼に、元気そうですね、良かった。では2回目の入院の日取りを決めましょう(*_*)ということになり、その場で2回目は3月の某日ということになった。はやっ!

   

入院の前日にはPCR検査をして、問題なければ次の日に入院だそうだ。その後別室にて、今度の入院に関して看護師さんからのレクチャーを受けた。

前回の入院が、救急車で運び込まれるからの、なしずし入院(という言葉はないかもしれないけれど)だったので、日を決めて入院というやり方が、やけに新鮮に感じてしまう。 

トータル2ヶ月くらい入院したが、その間動けるときは、ひたすら病院の中をウロウロしていた。そんな私は、あくまで中の人といったらよいのか。入院中、外から病院を眺めることなんて一切なかった。ただ入口から病院内にはいるだけでも、なんだか面白かったな。

入院していたのが総合病院なので、診療時間内に行くと、何とまぁ大勢人がいることいることいること!入院中は診療時間外にコンビニへ行ったりしていたから、掃除や警備の人が数人なんて光景を見ることも多かったなぁ。人の増減に関しては、時間で極端に違いがある。

病院のオンとオフといったらいいのか、病院の全く異なる面を見たなぁという気がしたね。

 

家では、できる範囲て家事をしている。このできる範囲っていうのが問題で、びっくりするくらい体力が落ちたことを自覚せざるを得なかった。

例えば退院したあとの初めての外出の際、自分の歩く速さがあまりに遅くて、呆然としたよ。70歳過ぎたおばあちゃんって感じ。すぐ息切れするし。

数日してその時より多少ましになったけれど、とにかく体力の落ち具合かひどくて、ちょっとの外出が精一杯となった。それに公共機関、電車やバスにで移動するだけで、もうへとへと。あー、私って病人になったんだな。障害者になったんだなと悲しくなった。

病院の中には、当たり前だけれど病人しかいない。だから自分自身が病人であるにもかかわらず、そこまで弱ってる自分を実感していなかった、というか直視を避けていたんだね。

日常生活に戻ると、当然道ゆく人々は歩く速度も早いし、走ったりなんかもしてる。それを横目で見ながら、もう無理だよ、私には走るなんてと思う私。

 

昨日入院中に書いたメモを見返したんたけど、12月末が多かった。その時期は頭も気持ちもかなり混乱していて、メモを久しぶりに読んだ感想は暗い!のひとことにつきる。いやそうなってしまうのもわかるけど。自分て書いた辛気臭く絶望的な言葉が並んでいて、今はちょっと受け付けない感じ。もう少し時間が過ぎたのなら、冷静に読めるのだろうか。

 

なんか今は、ぼそぼそと生きているっていうのが、一番ぴったりくるのかもしれない。

がんになったーポンコツ日記

令和4年12月13日、私は救急車で某病院に運び込まれた。腸閉塞だった。緊急手術で、ストーマ(人工肛門)をつくった。

その後の検査で、大腸がんになっていることが判明した。肝臓と肺にも、転移していた。そのまま入院ということになり、体調を整えながら、がんの化学療法をしていくということになった。

 

まさに怒涛の展開とはこのことだろう。わたしの人生は、その前・その後と表現しようがないくらいに、変わってしまった。

 

思えばそれまでずっと胃と腸の具合が悪くて、近くのクリニックに通いながらちまちまと薬を飲んではいたのだ。それに健康診断でもひっかかつたりしてはいた。しかしここまでの大事になるなんて、考えるてもいなかった。まぁ今になって何を言ってたとしても、後の祭りでしかないんだけどね。

 

がんはステージ4。でも末期ではない。転移していると、ステージ4なんだってさ。知らんかった。

娘には本当に悪いことをした。娘は最初に私が病院に運び込まれたとき医者に呼ばれて、“お母さんは、2年くらいしか生きられないかもしれない”と言われたそうだ。同居している唯一の家族だからね。あとから聞いたのだけれど、娘はパニックになってしまったらしい。そりゃそうだよね。病院側として現状を身内に知らせなくてはいけないけれど、まだ娘は大学生。何が、なんだか分からない。コロナで面会はできない。急にひとり暮らしになる。といった感じだった。

 

私自身は病気のことに関して、全くと言っていいほど詳しい説明を受けておらず、ただひたすら静かに療養しただけだった。

 

12月は私自身の体調が落ち着くのを静かに待つしかなかった。そのころ書いてたメモがあるんだけど、今読むと我ながら追い詰められすぎて可哀想なくらいだった。

というより精神状態がギリギリすぎて、あんまり読みたくない感じ。

落ち着いたらブログに書こうかなんて思っていたけれど、落ち着いた日々なんて来やしない。この文も、パソコンを開くことを諦めて、スマホでポチポチ書いているのが実際のところ。

でもなんとか当時のメモをまとめたいなと思ってはいる。

そして最近の私は、混乱する気持ちをツイッターに書きなぐっている。まさかほったらかしの、ツイッターを再開するとはおもわなかった。

 

ところで私はつい3日前、あまりの入院ストレスで一時的に退院してきたところだ。なんというまとまりのない文章た思いつつ、これが私の現時点での精一杯だったりする。

追記

マックでチキンフィレオのセットを食べた。ずーっと食べたかったんだよ。ジャンクな食べ物を!

実のところ昨日までヘロヘロしていて、お風呂入るのもひと苦労だった。まぁ今でもたいしてかわらないんだけどさ。

食欲が出てきたことが、本当に嬉しい。でも大好きなコーヒーは、まだ怖くて飲めない。カフェオレならいけるか?チョコだって重く感じて食べられないくらいなのだから。

おとつい外に出て歩いた時は、自分の歩きのあまりの遅さに本気でショックを受けた。70歳をとうに過ぎたおばあちゃんのように、おぼつかない足取りだったので。

今日だってあるくのが決して早いわけではないけれど、道ゆく人々になんとかついていけてる、気がする。それだけでほっとするよ。

マック万歳!は冗談だけど、これからも生きていかなくちゃね。このポンコツな私のままで。

 

だらだら日記ー父親を見限った日の話

9日

父親を、見限った日のことを覚えている。あれは高校3年生の、たぶん春とかに起こったことだった。

 

私は自分の部屋で、机に向かって本を読んでいた。そこに突然父親が入って来た。私は「あ、まずい」と思った。勉強をしていなかったからだ。
彼は抜き打ちで部屋に入って来ては、勉強をしていないと言って子供を怒鳴る人だった。それは、いつものことだ。
父親が部屋に入ってくる瞬間に、子供は彼が想定している振る舞い(勉強している)をしていなくてはいけない。父親の頭の中には、そういう決まりがあったらしい

その日も父は私をチェックするため、部屋に入って来た。本を読んでいる私を発見し、何も言わずに私が読んでいた本を手にとって窓のそばに行った。彼は閉まっていた窓を開けて、そのまま本を投げ捨てた。そして部屋を出ていった。まさに嵐のようだった。

その理不尽とも言える一連の出来事は、会話もなくあっと言う間に終わった。まぁ子供である私に、何かを申し立てる権利はないのだけれど。
当時私は17歳。まだ親に逆らえる年ではないし、そもそも逆らうような性格でもなかった。だから、特に文句を言ったという記憶はない。本を捨てられたのは初めてだったから、驚いただけ。

投げ捨てられたその本は、フランス人の作者が17歳の時の写真が表紙に使われていた。私は本屋でその表紙を見た瞬間、彼女と目があって胸の中がときめいたことがわかった。人生で初めて買った、ハードカバーの本だった。

私は窓の下に落ちている本を見ながら、ぼんやりと、拾いに行かなきゃなぁと思った。ショックというよりも、あの人は教養がないってことがわかった。なぜならその本は、フランス文学でも一部に熱烈な読者を持つ、マルグリット・デュラス*1の本だったから。

それに少しでもまともな神経があるなら、人を読んでいる本を捨てたりしない(これは後から思った。鈍いな私)。
おそらくあの人は、デュラスのことも知らなかったんだろう。自分が考えているように、子供が動いていなかったことしか見えてない。

 

知らないことは悪くないけれど、人が読んでいる本を取り上げて投げ捨てるのは、すごく良くないことだと思った。

 

 

もちろん本は、その後すぐに拾いに行きました。

●7年前に書いた記事を、リテイクしてみました。かなり違いますね。当時は上手く整理できておらず、書けなかったことも書けた気がする。

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*1:フランスの小説家、脚本家、映画監督 。1914年4月4日 -~1996年3月3日。ヌーヴォー・ロマンの作家の一人に数えられることもあるが、キャリアの点でも作風の点でもヌーヴォー・ロマンの枠内には収まらない。

だらだら日記ーものごとはどこから見るのかが重要

8日
謎の誕生日プレゼントとおまけが届いた件について

昨日、実家の母親から、一週間遅れくらいの娘の誕生日プレゼントが届いた。
なんというか、見事に変なセンスのアクセサリー、そしてなぜか娘の私あてで、おまけみたいにブラウスがはいっていた。もちろん私自身は、何も頼んでいない(おまけブラウスの件)。
根本的な問題として、娘はおばあちゃんに誕生日プレゼントが欲しいと言ってない、つまり何も頼んでいないってこと。要は勝手にプレゼントか送られてきたわけ。

起こったことをまとめると、おばあちゃんは娘本人の希望を一切聞かず、勝手に立案・企画した誕生日プレゼントが、サプライズで届いた、である。
この件に関して、娘は最初から最後までショックを受けてしまい、慰めるのが大変だったよ。何も希望を聞かれていないこと、勝手にブツが送られてきたこと、そのプレゼントの中身とおまけ、その後(しぶしぶかけた)お礼の電話の際のおばあちゃんの言い分、とにかく全部!ぜーんぶ!

娘はオブラートに包みながら、アクセサリーが自分の趣味ではないし、そもそもデザインが若い子向きではないこと。ブラウスも、私(母親)に似合わないと伝えたが、そんなことで怯む彼女ではない。
「あらそう!真珠のネックレスの方が良かったかしら?ブラウスがいらないなら、あなたの友達にあげればいいんじゃないの?」で終わったそうだ。

娘としては、なら冠婚葬祭に使える真珠のネックレスでいいじゃん!しかも友達にブラウスをあげればいいって一体どういうこと!だそうだ。

実のところ長い付き合いの私からしたら、おばあちゃんことわが母の暴走は、笑っちゃうくらいの通常運転でしかない。彼女はいつもなんにも考えず、その時思ったことを思ったようにする。こちらの意見は、ないも同然!なんとか思っていることを伝えようと頑張っても、半分どころか伝わったためしなどない。
しかしプレゼントをもらった本人(娘)にとって、この件はどうにも理解し難く、受け入れられない出来事だったらしい。

私はこれまで母親であるあの人から、そういうとんちんかんな扱いしか受けたことがなかった。だから現在は、意識的に彼女と距離をとっている。それでも娘には優しいおばあちゃんなので、私のように距離をとることを強要していない。だから時々、おばあちゃんから娘に電話がかかってくる。

今回の誕生日プレゼントで娘がショックを受ける姿は、私にとってけっこうな衝撃だったな。私、なんかいろいろ麻痺してる?

誕生日プレゼントというより娘と私の温度差がありすぎる件に関して、もう少し冷静に考えてみたほうがいいのかもしれない。

 

 

 

父親の葬式とニーチェとかたつむり

父親の葬式の話というより、知らない間に父親が死んでいた話

ある日突然、母親から父親が死んだから葬式が○○日にあると連絡が来た。母親は父親が死んで葬式の日が決まってから、娘の私に葬式の日を知らせてきたのだ。本当に突然のことだったので、もちろんすぐ帰ると返事をした。

ところでびっくりし過ぎてその時は気がつかなかったのだけれど、父親が死んでから娘に葬式の日取りを連絡っておかしくない???死にそうになったら、たとえ父親と娘が不仲でも母親なら娘に知らせないか?

母親からの連絡を受けた私は、葬式のために小学生の娘を連れて実家に帰省した。

久しぶりに会った母親は、父親が数ヶ月の間にどんどん弱っていったことをベラベラと私に話してきた。父親が死ぬ数日前には、もうだめだなとわかったらしい。繰り返しになるけれど、そこまで分かってたなら私に知らせてよ。

私は、物言わぬ父親の死体に対面した。こんなにじっくり死体を見たのは、生まれて初めてだった。全体的に白っぽいな、と思った。


その後は葬式にまつわるモロモロ(母親が焼き場に来てくれた親戚に人見知りして、挨拶周りをしないで黙ってすみっこに座り込んでいたので私がまわった)もあったので、全てが慌ただしく忙しかった。

 

父親が死んで何ヶ月かしてふと、あれ?私母親に死ぬ前じゃなく、死んだあと連絡をもらったよね、と気がついた。
実のところ父親とすごーく会いたかった!というわけでもない。でもさすがに死にそうなら、最後に会いたかったよ、実の父親だし。最後だからわかりあえる!とお花畑みたいなこたは思ってなかったが、それでも生きて会える最後なら、会いたかったよ。

 

ここで疑問です。父親がどうとかではなく、母親はどういうつもりで私に死んだ後連絡したんだろう。なぜか私は、その理由を未だ彼女に聞けずにいる。

 

母親は、近所付き合いといった形式的なことなどはできるけれど、精神的に頼りになるというタイプではない。
だから私は心の中で密かにあの人を、頑張る高校生と呼んでいる(彼女は実年齢70過ぎてる)。要はいつまでたっても10代の少女のように幼い部分があると感じているってこと。しっかり者の高校生がいろいろ頑張って、家のこと(主婦)をしているって感じがぬぐえない。もちろん失礼きわまりないので、この言葉を本人に向かって言ったことはない。

 

 

かつて哲学者のニーチェは言った。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだと。私は父親の葬式について思いをはせる際には、この言葉が頭の中に浮かんでくる。そしてこの件に関しては、これ以上の考察ができない。当然母親にも、何も聞くことができない。ムリです。ムリムリかたつむりと、脳みそが拒否してしまう。

まぁこれを人は、トラウマと呼ぶのかもしれないね。

 

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だらだら日記ー承認欲求との長い戦い

25日 
地方出身者で、3人兄弟の長女な私。親は、まぁ毒親な部分があると思う。

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多かれ少なかれ、誰しも人は承認欲求を抱えて生きている。私は10代の初め、いや10代になる前から40代の半ばまで、自分の承認欲求が親に向かっていた。我ながらしつこかったな。
25歳の時、父親に対する承認欲求を諦めるきっかけとなる出来事があった。

子どもの頃から父親の感情が高ぶると、時折ひっぱたかれていた。(実はそんなに痛くはない。ちかっとする程度の痛み。もちろん嫌だけど)
その日忘れてしまったけれど、何かがあって父親は手をふりかぶった。しかし私は、貴方が今しようとしている罰(私をひっぱたく)は、こういう風に誤解があって、叩かれる理由は存在しない。それに私は、そもそも叩かれることが嫌だからやめてと言った。
文にして書くと、まるで理路整然に主張したみたいに思わせてしまうが、実際は噛みながら必死で言った。
そうしたら父親は、驚いて叩くのを止めた。やめたことに、私も驚いた。
しかも彼はその時だけでなく、その後も私に手を挙げることを止めた。まぁそのことには、後から気づいたんだけどね。
どうもその日の私の訴えが、私たち2人の間の関係を劇的に変えたらしい。

らしいというのは私(娘側)からの推測だ。

承認欲求に戻ると、あの日私は彼に私の承認欲求をはっきり求めたんだと思う。私を愛して認めて欲しいという。
そういったことを考えながら、父親に訴えかけたわけではない。その時は単に、不当に叩かれたくなかっただけだ。でもそれまで私が折れずに意見を主張したことは、おそらくなかったんじゃないかな。

彼のあの、驚いた顔!多分だけど、彼は私(娘)が自分自身の一部というか、延長みたいな感覚を持っていたように思う。あの日私が彼に対して意見を述べたことで、私は彼と違う人間だということが、急にわかったのかな?想像だけどさ。

私が彼とは違う意見を持った、一人の人間だということを認めて欲しい。要は自分の承認欲求をストレートに相手にぶつけたんだけれど、結果として父親はそのことにビックリしただけだった。そして私を、見なくなった。

彼は家で威張りくさるタイプだったから、私が自分の一部じゃないことに不気味さを感じたのかもしれない。その後私に遠慮するというか、あんまり話をしなくなるという対応から推測してみた。でも何という身勝手。悲しい。

彼は25歳までの私のこと、一体なんだと思ってたんだろう。そして私が意見を言わなかったら、引っぱたかれ続ける日々が続いていたんたろうか?続いていたと思う。

なんかほんとにビビリながらカミカミしながら、彼の目を見て言ったんだよ。やめて欲しいって。その後私のこと、からかう感じか腫れ物に触る感じの対応になったけど。

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 

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実は今となると、起こった出来事はまるで私の頭の中だけで起きた、幻の事件だったみたいに思える。そのあとも時々起こったことについて思い返していたので、今でもなんとなく覚えてるんだけど。
でももし、「○○は本当に優しい子、お前がいてくれて助かる」なんて父親か母親のどちらかに言われたら、コロッとほだされていたよ。承認欲求舐めんな。っていうより、親に認めて欲しいという感情は自分じゃ手に負えない。切ない。
もう十年くらい前に死んでしまった父親の介護も、一言、たった一言でもあれば進んでしたと思うし、近くに住んでいたなら手伝ってたはず。

実は父親の死に際というか葬式に関しても、衝撃の事実が存在する。私は父親が死んでしまった後に、母親から葬式の日取りを知らされた。つまり死にかけている父親のことを、秘密にされていたのだ。死んでから、葬式の日を知らされた。ねぇ、これどういうこと!!

当時私は実家を出て暮らしていた。一緒に住んではいなかったため、彼が弱ってほぼ死にかかっていることを、母親から一切教えて貰えなかった。これは、母親に関するやばい話。多分この話は続編を書くことになりそう。母親編として。