梅と私ー湯島天神にて
休日のひとコマ
湯島天神に梅を見に行って来ました。2週間ほど前に六義園にも行ったのですが、悲しいほど梅が咲いていなかったので、(しかも梅の木自体が少なかったです。知識不足なり)リベンジのつもりで気合を入れてみました。
しだれ梅。花言葉は「柔らかさ」「華やかさ」。梅自体の花言葉が、「高潔」「忍耐」「忠実」「独立」「厳しい美しさ」などがあります。個人的には私は白い梅が特に好きなのですが、花言葉は「気品」なのだそうだ。う~ん、花言葉なのに、なんとも生真面目なものばかりです。確かに桜と比べると真面目感はあるかもしれない。
ちなみに桜の花言葉は、「純潔」「優美な女性」「精神美」「心の美しさ」などがあります。梅よりも凄いかもしれません。
入り口の階段はこんな感じ。なかなか雰囲気がありますね。
おみくじがあったので、今さらながらひいてみたらなんと大吉!実は1月の浅草でひいたおみくじが凶だったので、今回は単純に嬉しかった。湯島天神を好きになりそう。
菅原道真公の和歌つきです。まぁ天満大自在天神*1なので、当然といえば当然ですが。
東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花
主(あるじ)なしとて春な忘れそ
※春になって東風が吹いたなら、その風に託して配所の大宰府(だざいふ)へ香りを送ってくれ、梅の花よ。主人のこの私がいないからといって、咲く春を忘れるな
『拾遺和歌集』より
大好きな白い梅の花です。写真の腕がイマイチなのですが、やはりすっきりとした美しさがあると思います。
あっちとこっちの話ー『眩談』京極夏彦
久しぶりの京極夏彦の本。8編からなる怪談(?)というのかな...。
これはまぁ何というのか、“面白くて、おススメ!”といった類の本ではない。
京極堂シリーズのように、夢中になるような大きな事件も起こらないし、魅力的な人物もでてこない。ではどんな本なのか?
家の奥の間の、古い箪笥の上の置いてあるヘンな人形を祀っている話(シリミズさん)とか、ひなびた温泉にふらりと行って、マッサージをしてもらったら台の下に誰だか知らない老人がいるとか。(杜鵑乃湯ーほととぎすのゆ)ものすごく怖いというわけでもなく、事件らしきものが解決するわけでもなく、いやもしかしたら最初から何も起こっていないのかもしれない。(むかし塚)
書かれている時代はおそらく少し前、そう昭和の辺りのような。そして田舎の話が多いのかな?あやふやな記憶をたどると、急にはっきりとした形でおぞましい何かが予告もなしに出現する。
ちょうど私が子供のころくらいの時代の雰囲気だ。学校の先生は平気で生徒を殴っていて、親は子供にとって絶対的な存在で、逆らうなんて考えたこともなかった。そんな大人たちに反抗するのはヤンキーと呼ばれる子たちだったし、町内には一軒や二軒の通じない人が住んでいる“困った家”もあった。そんな風な中途半端な所の地方都市ことを思い出したりする話。
ところで作者の意図としては、家のドアとかふすまを開けたら急に異世界がそこにある、ということを書きたいのではないかと推測してみる。それらはファンタジックでもめくるめいてもいないし、おどろおどろしいとも少し違う。ただそこに“存在している”だけで、別に何を主張するわけでもない。
“あっち”と“こっち”には実は大した違いなどなく、人は時として容易に“こっち”から“あっち”に行ってしまう。前に読んだ本で『厭な小説』では、
ひたすら厭な気分になって、途中でとうとう読むことを止めてしまったのだが(それが狙いの本)、『眩談』は厭な気分になる手前のグラデーションの気持ちのことを書こうとしたのかもしれない。話によって色の薄い濃いがあるのだが、いずれもはっきりしない曖昧な気分(決して良くはない)を、どこにも着地させずに、話によってはその辺にほったらかしにすることが作者の狙いな気がする。私の私的な結論として、京極夏彦は多分、というより間違いなく変わった人だと思うな。《全然本の感想になっていない(^д^)》
綺麗な病気
最近何かと忙しくて、気持ちに余裕がないことが気になってしまい、久しぶりにゆっくりと好きなCDを聴いた。
- アーティスト: ジェリー・グロスマン,マルタ・クビショバー,ヤルミラ・シュラコバー,ジョン・レノン,スメタナ弦楽四重奏団,イバン・モラベック,ラドスラフ・クワピル,ロスアンジェルス室内管弦楽団,イバン・クラーンスキー,セルギュ・ルカ,ダイアン・ウォルシュ
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
- 発売日: 1997/12/17
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弦楽四重奏の曲が何曲か入っているのだが、その曲をボケーっと聴いていると落ち着く。この中にはマルタ・クビショウァー*1によるビートルズの「ヘイ、ジュード」が入っていて、予告編にも使われている。
この曲の何がいいっていうと、英語ではないところ。私は英語の曲を聴くとハンパに歌詞の意味が分かってしまうところが苦手だ。これはチェコ語で歌われているから、ヘイ、ジュード以外、何て言っているのかが分からないところが凄くいい。
それからCDにはチェコ語の民謡も入っていて、その曲はソ連軍の侵攻のシーンで流れる。物悲しい響きがひどく耳に残る曲だ。そしてやはり歌詞の意味が全く分からない。
この『存在の耐えられない軽さ』という映画は、ミラン・クンデラが1968年にあったソ連のチェコ侵攻について描いた作品を映画化したもので、「世紀の傑作」と呼ばれているし、私も素晴らしい原作であり映画だと思っている。
- 作者: ミランクンデラ,Milan Kundera,千野栄一
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1998/11
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でも私がどんなに知識を蓄えても、チェコ人の気持ちを理解することなんてできない。だからチェコ語で歌われる歌の意味を分からなくてもいいと思っている。歌声も歌詞も分からないまま、それらにただ聞き入ることで何故か心のやすらぎを得ることができる不思議さ。
精緻に美しく造られた作品は人を癒すと思うが、それらを創造した人たちは勿論凡人ではない。そのことを考えると私は何故か「綺麗な病気」という言葉を連想する。芸術という病に侵された人々が罹患する病気。(しかし病気扱いは、我ながら失礼極まりない)多分私は芸術の才能というものを、偏っているとかバランスがとれていないというイメージで捉えているからだと思う。そして凡人である自分がそういった人や作品に不用意に近づかないことでかえってその良さを十分に味わいたいと考えている。
弦楽四重奏「クロイツェルソナタ」 のバイオリンの音なんて、歌詞すらないのに胸を切り裂かれるように切なく絡み合う。エロティックというより非常にセクシーな曲。映画を見たのは随分前のことだから場面をはっきり思い出せるわけではないけれど、CDの中のバイオリンの音を聴くと、静かな気持ちになることができる。
美しいものを美しいままで受け取りたい。その美しさを自分の“理解”の中に押し込めたくないと思う自分がいる。
正しくて、正しくて、正しいから苦しい
思うところがあって、ひっそりと書いてみる(なら増田で書けよって感じですが!)
保育園落ちた日本死ね!!!という増田のエントリーについての意見
「保育園落ちた日本死ね」と叫んだ人に伝えたい、保育園が増えない理由 | 駒崎弘樹公式サイト:病児・障害児・小規模保育のNPOフローレンス代表
のその後
保育園落ちた日本死ね!!! をシェアした後の反響について思うこと|Yanoshin|note
この人はなんかすごいちゃんとした人で、この記事のちゃんとしていて、もとの増田さんのことも責めてないし前向きだと思う、思うんですよ。
でもね、私には違和感があった。増田さんからは感じなかった違和感。何でだろ?
増田さんは突っ込みどころが満載なんだけれど必死さがある。それに対して現実的で建設的な意見を書いたことは正しいし、素晴らしい。でも増田さん自体は救われないんですよ。
「怒っていい」というお許しが欲しいわけじゃなくて、保育園に落ちた増田さんは、今現在怒っているのだから、多分だけれど建設的な意見を聞きたかったわけじゃなくて、ひたすらどこかに怒りをぶつけたかったんだと思う。
つまり増田さんの怒りを受け止めてないことにちょっとだけ、違和感というか納得いかない感を感じたということです。
気持ちの問題を現実で打ち返した、でも意見のあり方としては皮肉でもなんでもなく正しい。
正しくて、正しくて、正しいから、増田さんの怒りは行き場がない。
実際保育園や待機児童対策のこととか、様々な現状を知ることができたのも良いことだと思う。自治体に対して声をあげて、行動していこうということも素晴らしいと思う。でもそう思えば思うほど最初の増田さんの影が薄くなってきてしまい、今働けなくなってしまうらしい彼女は、どうしているんだろうか?と心配してしまうよ。知りようはないんだけれど。
気持ちの問題を気持ちで受け止めることは、きっと何の役にもたたないんだろう。大体私がそんなことを思っても仕方がないのだから。
何か昔からそういう部分があって、「その意見や考えや対策がどんなに正しくても、今現在それを言うかな?」と思ってしまう自分がいる。正論で全部埋め尽くされると、走って逃げたくなる。少し待ってくれないかな?と言えずに下を向いてしまう自分がいる。
保育園とか待機児童の問題は大変重要で、待ったなしというか時間も何もないんだけれど、もっと近い将来の再来月、4月から保育園に入れなかった子どもたちと保護者はそれぞれにどうするんだろうか?どうもできないよね。そもそもいろいろ問題が大きくなり過ぎて、(保育士の給料のこととか)毎年この時期になる度に同じことを聞かされている気がする。
現実の子供の姿が見えてこなくて、タイキジドウっていう謎の子供の集団が急にクローズアップされる。そして子供のいる人もいない人も大人はみんな大きい声で意見をぶつけ合う。
でもホントに、増田さんはどうするんだろうね。なんとかなるといいんだけれど。
クララが立った!というハイジの気持ちになった話
なんか素敵なことがあったのでは?と思わせる題名なのですが、そういうわけではありません。
土曜日に娘の学校の担任の先生から学校へ来てくれ、娘に内緒でという電話がありました。なんかまたやったか?思ったのですが、もうじき学年末テストなので、先生が娘に勉強の進み具合について質問したところ、塾に通っていることを言ったらしいのですが、
どうやら 娘の通っているらくだスクールという少し変わった塾についていろいろ疑問があるらしい。
まぁ実際のところ、中学2年生のくせに塾でやっている教材は小学校5年生(4年生から進んだ!)なので、せめて中学校の教材にならないか?という質問というか、意見を言われたわけです。
その電話には「はいはい、説明&釈明に学校へ行かせていただきます」と答えておいたのですが。
帰って来た娘に先生との会話を聞いてはみたのだが、詳しく聞くと嫌がる嫌がる。では塾の先生に私が連絡しておこうか?と言っても嫌がる。じゃ、どうするの?と聞いたら、
「私が、塾の出るプリントの枚数を増やすように塾の先生に言うから、そうやって(勉強を)進めれば、学校の先生も文句を言わないんじゃない?」と言ったではないか!!!
初めて聞いたよ!君からそんな前向きな提案を(はあと)
これは、クララが初めて自分の足で立ったのを見た時のハイジの気持ちと一緒では?うん、そうだよねと思いました♪(割りと真剣に)
とにかく娘はいかに好きなことやるか、いやなことをしないかということには本当に一生懸命な人なので、そもそも勉強に関連することで自分から提案なんぞ一回もしたことがない。結構びっくりしたよー。
娘の話を要約すると、なんか全然先は見えていないけれど、らくだスクールで頑張っていけば何とかなるんじゃないかと思えたらしい。(実際小学校5年の算数をやっているわけで、そもそも中学数学まで届いていないのだが....)
現実問題、塾の先生への交渉は、自分でやらせてから結果を本人に聞きつつフォローすればいいとして、 問題は学校の担任の先生の方なのだが、来週はひさびさに学校詣でをしつつ、問題をまるく治めに行って来ます。親が出ていって頭を下げれば、先生というものは一応納得するので、(バカにしてないですよ、メンツと責任の問題ですね)面倒と言えば面倒なんですが、ハイジな気分で頑張ります。
世界が変わった日ー「宰相のインテリジェンス」手嶋龍一
ジャーナリストで作家の手嶋龍一氏の本で、『ブラックスワン降臨』からの改題だそうだ。“ブラックスワン”というのは1697年にオーストラリア大陸でブラックスワンー漆黒の白鳥が発見されて以来、ありえないことが現実になることの隠喩(メタファー)なのだそうである。
9.11とは、言わずとしれたアメリカの同時多発テロのことで、その周辺の“事情”ついてのノンフィクションだ。そしてブラックスワンはフクシマの原発を襲ったメルトダウンのことでもあるのだそうだ。
そしてこの言葉はマーケット(市場)において、事前にほとんど予想できず起きた時の衝撃が大きい事象のことを言うそうで、手嶋さんの造語というわけではないらしい。
ところで今ここで私が9.11について書けるほどの知識などないのだが、雑感として思っていることがある。
アメリカがどうとかアラブがどうとか言うことではなくて、あれをきっかけに戦争のやり方というか、あり方とでも言ったらいいのか、戦争の定義が変わったと思う。それまで戦争といえば他国を侵略、とかどこかからの攻撃から自分の国や民族を守るというというものだった。米ソの“冷たい戦争”*1でさえも勿論例外ではなかった。
でもあの時から敵は見えないものになり、戦争というはっきりとした形をとらずに、『テロリストとの戦い』と呼ばれるようになった。アメリカはオサマ・ビンラディンというかアルカイダを匿うタリバン政権と戦って勝利した、ということにはなっている。まぁ確かにそういう形で決着はついているのだが、ブッシュ大統領がビンラディンにたどり着くまでにたどった道筋は、いわゆる“戦争”とはほど遠い。ブッシュ大統領は、グァンタナモ米軍基地*2にテロリストと思わしき人物を片っ端から収容して徹底的に尋問するという方法をとったのである。まさに人権も法律もへったくれもないやり方だった。
無論テロを起こしたビンラディンを擁護したいわけではない。そういうことではなくて、21世紀の戦争は、もっと複雑な国際事情が絡み合う、始まりも終わりもはっきりしない形態をとるんだな、と思った。9.11は、それまで表面化していなかったものが噴出してきた結果だ。
手嶋さんはそれをブラックスワンが舞い降りたと表現しているけれど、私には国と国との利害や思惑という名のドロドロとした栄養をたっぷりと吸って育った木に実った黒い熟した果実がポトリと落ちたように思える。問題は落ちた先がアメリカだったということなのだ。これまでアメリカに実がおちたことがなかっただけで、むしろ順番が回ってきただけなのではないか?と。
ブラックスワンはオーストラリアに本当に存在している鳥だ。メタファーではない。どんな色をしていようと、テロなんて起こさない。テロをおこすのは人間だ。
ランサーズと私
ランサーズでほそぼそとライターの仕事をしている。
今日の午前が納期だったため、昨日は夜中まで仕事をしていた。なのに今日また仕事が入った。トライアル(お試し試験的に記事を書くこと)なしで仕事をまわしてくれるのは嬉しいけれど、正直寝不足だ。断ろうかと思ったけれど、頑張れば何とかなりそうなので引き受けることにした。
仕事自体は一件何百円という決して面白い仕事というわけでもないが、とにかく本当に何もないところから何とかここまで来たので、黙って書くしかない。
今回は何人もトライアルの人がいたり、途中で連絡がとれなくなる人がいたりしたようだが(仕事用のチャットの中で名前を呼びかけられていた人がいた)どうやらそのまま逃亡したようだ。
今回継続してもらっている仕事とは別に、また何かの案件にトライアルを送って仕事を取りたい。
ブログは、....何とか明日はもっとまともな文章を書く予定です。