ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

怖い絵ーエドヴァルド・ムンクの「思春期」

怖い絵という本のシリーズがある。作家でドイツ文学者でもある中野京子さんという方が著者で、彼女はこの本を通じていくつもの西洋絵画を紹介している。

 

 

どの絵も、美しかったり素晴らしかったりする。ただし怖い絵というタイトルのとおりに、この本は絵画の紹介するだけではない。中野さんは、絵画の持つ歴史的な背景や秘められたドラマを解説してくれるのだ。

ムンク「思春期」が、この本の中で解説されている。一般的にムンクと言えば、「叫び」が断トツに有名だろう。私自身もムンク「叫び」を描いた画家、くらいしか知らなかった。現に私は、彼のエドヴァルドという本名すら知らなかったのだから。


この絵の個人的な感想として、描かれている少女女の心が、まるで引き裂かれているようだと感じた。見開いた目と私の視線を合わせると、鑑賞者を拒絶するような雰囲気が作品から伝わってくる。



いまいる場所に、うまく馴染めていない少女。現実を拒絶しているとでもいうのだろうか。この絵はタイトル通りに、思春期の少女をそのまま写し取ることに成功した作品なのだろう。

 

エドヴァルド・ムンクは、ノルウェー出身。表現主義*1創始者と言われている。彼は30代で、この作品を描いている。というより我々に知られているようなムンク作品は、ほとんど30代に描かれているとのことだ。

ムンクの家族は彼が若い時期に、次々と病にかかったり亡くなったりしてしまった。
彼の人生には常に死の匂いがつきまとい、その昏い影につかまらないために彼は絵を描いた。戦いに疲れた彼か45歳で自ら精神病院に入院を決意するまで、精神のバランスを欠いた日々は続いたらしい。

入院という決断が功を奏し、ムンクは心身の健康を手に入れた。けれども皮肉なことに、彼は代わりに画家としての煌めきを失ってしまった。

 

一般的に人間の才能とは、人よりも優れた部分だと考えられている。突出したデコボコのデコの部分を、人々は才能と言っているイメージ。しかし私は歳を重ねるにつれ、才能とはデコー突出した部分ではなく、ボコー欠けた部分なのではないかと考えるようになった。

他人が当たり前に持っているものを持っていないがゆえ、必死になって人がやらないオリジナルな努力をすることで、特別な何かを手に入れる。

ある人物が当たり前の日常を過ごすマニュアルを持っていないのならば、その人が持っている何かを使って、人生を生きようとするんじゃないかな。

 

天才ではなくなったムンクは、退院後平凡な人になって81歳まで生きた。当時も今も平凡な人になったムンクの才能を惜しむ人は多いかもしれないけれど、私はムンクが周囲の人々にエドヴァルドと呼ばれながら、穏やかにその後の人生を終えたのではないかと思っている。

*1:様々な芸術分野(絵画文学映像建築など)において、一般に、感情を作品中に反映させて表現する傾向のことを指す

好き=才能か?ー「プチクリ」

「あなたの中に、多くの才能がねむっている」という、なんとも耳に優しいコンセプトて書かれた、オタキングこと岡田斗司夫先生の本の感想です。彼が2005年に出した「プチクリ」を最近読み返しました。

 

ちなみにプチクリとはプチ・クリエイターの略。プロじゃないけど、楽しんで、自分からクリエイトしている人のことを、そう名づけているとのこと。なんか言葉の響きがこそばゆいのは私だけ?

実は私、彼のユーチューブが大好きで、登録して切り抜き動画までせっせとみております。

 

好きは才能か???問題

いやそんなに単純ではない、、、と思いつつもゴニョゴニョ言葉少なくなる私。

 

クリエイターになりたい!というひとは、性別。年齢関係なく、山のようにいると思います。そんな多くの人々に向けて、実にうまいことまとめてあるというのが正直な感想ですね。

岡田さんは、2005年から大阪芸術大学の「キャラクター造形学部」で教授を勤めているとのこと。そこでの講義の初日、

岡田さんは「150人生徒のうちで、プロのクリエイターになれる人間はせいぜい3人」と学生に言います。つまり残りの147人は、4年間真剣に頑張っても、憧れのクリエイターにはなれないと分かってしまうそうです。

プロ・クリエイターになれるなら、幸福なのか?と彼は問う

岡田さんは本の中で、「人生を楽しく過ごすこととクリエイターになることは、イコールではないし、落ち着いて周りを見渡して」とプロ志望者に呼びかけます。

じゃ、具体的には何をどうすればいいのか?

岡田さんは、

1.「わかること・興味があること=才能がある」「興味がない=才能がない」と定義2.大き目の白い紙(A4以上)に、「自分が好きなこと」「興味があること」「お気に入り」などを書き出す

3。書き出した中で、全体を見て「表現できること」をマーカーで囲う

このスリーステップを経て、自分の才能を可視化、見えるようにするのだと述べています。とにかく定義とやり方がわかりやす!

でもここまできて、読者のとって無視できない問題は、お・か・ね。これに関しては、お金を稼ぐかどうかよりも、大切なのは実際にクリエイトすること、と言う感じでふわっとまとめた印象ですね。

好きは才能か???問題再び

本の中で、「好き=才能」という定義で話が進んでいるので、何かを好きなことは才能があると言うことなのかどうか?という本を読む前の私個人の疑問についてです。本の目次や章立てには、自分の好きなことを才能があるとしているので、そこはつまづく部分ではないという結論に達しました。

なーんか耳あたりが良すぎて上手い詐欺師にだまされたように気がしないようなそうでもないような気がするのですが、ユーチューブを見ている際でも岡田さんのちょっとうさんくさい話の進め方が実は嫌いではないため(そもそもチャンネルのタイトル名が「サイコパスの人生相談」なので)、本そのものは楽しく読みました。

クリエイティブという言葉やクリエイターという職業は、定義づけや扱いが難しい。でもとりあえず自分の興味があること、できること、できそうなことをやってみようと呼びかけるという意味では、良書といえるのでは?

 

 

入りやすい入り口から入るのがオススメという話

四捨五入すれば50という年になった身として思うこと、それはなるべく「頑張る」ということから遠くにいたいという気持ちでいっぱいなことだ。新学期だから新たな気持ちとかは全く湧いてこないし、新しいことやしんどいことなんかはできるだけやりたくない。そんな本人の気持ちとはうらはらに、前回の記事では今年度の目標を掲げざるを得ない現状を書いていたりする。

 

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まぁこれは「数年のうちにしなくてはいけないこと」だったので、仕方がないとあきらめているのが本当のところだけれど。

基本的に私の性格は、頑張りやでも前向きでもない。人見知りかつできるだけ最短距離で楽がしたい派。だから何か難しいそうなことを知りたいと思った時には、図書館で「マンガでわかる○○」みたいなシリーズを借りては読んでいる。このマンガでナントカというジャンルは案外充実しているのだが、それにはけっこう納得できる理由が隠されているらしい。

京都精華大学は日本で初めてのマンガ学部を創設し、現代の若者たちにマンガの描き方を教えている。去年退任してしまわれたのだが、学長がマンガ家の竹宮恵子氏でマンガ家の育成やマンガビジネスに非常に力を注いでいるのだ。もちろんこの大学を卒業したからといって皆がマンガ家になれるというわけでもないのだけれど、「マンガで食べていく」つまりマネジメントという視点があることには感心した。

「竹と樹のマンガ文化論」という本で、こういったマンガ界の現状について竹宮氏は内田樹氏と対談している。

竹と樹のマンガ文化論 (小学館新書)

竹と樹のマンガ文化論 (小学館新書)

 

 マンガ家としての苦悩や歓びだけではなく、後進の育成について体系的に捉えていることには驚かされた。前述した「マンガでわかる○○」シリーズは、新進のマンガ家入門になっているそうだ。マンガ家たちは、こうした入門書を描くことで読む人のために描く感覚が掴めるようになるらしい。確かにマンガ学科を出たからといってマンガ家で食べていけるという保障などないのだから、実践編として「マンガでわかる○○」シリーズはプロとしてのチャンスと言えるだろう。ここ数年本屋に「マンガでわかる○○」シリーズが当たり前のように並べられているのは、こうした背景があったということなのだ。

しかし竹宮氏がマンガを文化として捉え、後進を育てることを自分に課していることには驚いた。竹宮氏はマンガ学科だからこそ一般教養を含むいろいろな知識を学ぶべきという考え方を持ち、大学のカリキュラムに工夫をしていることは素晴らしいことだと思う。

以下私が読んだ「まんがで○○」シリーズ。

まんがでわかる 7つの習慣

まんがでわかる 7つの習慣

 

 

マンガでわかる! マッキンゼー式ロジカルシンキング (まんがでわかるシリーズ)

マンガでわかる! マッキンゼー式ロジカルシンキング (まんがでわかるシリーズ)

 

 

まんがで身につく ランチェスター戦略 (Business ComicSeries)

まんがで身につく ランチェスター戦略 (Business ComicSeries)

 

ランチャスター戦略やゲーム理論は名前だけ知っていたのだけれど、活字で読むと目がチカチカしてくるので。

マンガでやさしくわかるゲーム理論

マンガでやさしくわかるゲーム理論

 

 あとは統計学関係。全く基礎がないのだけれど、興味だけはある。でもこれだけでは全然入り口にも届かないかな。活字で読もうとしては挫折してしまうのが残念。

マンガでわかる統計学

マンガでわかる統計学

 

 一番最近読んだのがこの本だけれど、絵が可愛らしすぎて私としてはいまいち。古典に関しても興味はありつつ、入り口でモタモタしている状態だ。

まんがで読む 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集 (学研まんが日本の古典)

まんがで読む 万葉集・古今和歌集・新古今和歌集 (学研まんが日本の古典)

 

 マンガよりこっちの方が面白かった。

百人一首がよくわかる

百人一首がよくわかる

 

 

 アラフォーやアラフィフの年齢で活き活きとアクティブな人は本当に尊敬するけれど、根が適当なところがあるせいなのか自分が頑張ろうとか全く思わない。でもやたらにものごとの仕組みを知りたいという困った性質を持っているので、なんで最近「マンガでわかる○○」シリーズが増えたのかが不思議で仕方がなかった。これは需要(さくっと要点だけ理解したい読者)と供給(売れやすいマンガを出版したい編集者)が上手く成り立っているということなんだろうな。(出版不況は年々厳しくなる一方だと聞くし)

ちなみにこんなのもあるのは、皮肉と言えばいいのだろうか?面白かったけれど...。

いま出版が危ない!!―マンガでわかる再販制度

いま出版が危ない!!―マンガでわかる再販制度

 

 

 

 

 

 

 

人は何に対してお金を払っているのかという話

 

残業100時間超、残業代ゼロ、過労死認定も困難にー裁量労働制 先行事例から知る本当の怖さ(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース

ぼんやりとしかわかっていなかったけれど、もっと法律の勉強をしていかなくてはいけないと、いい年をしてアホの子みたいに思った。知らないと搾取される時代なんだよね、今は。

2018/02/22 20:02

 つい先日こんなことをブクマした私は、法律の本ではないのだけれど専門分野の本で、これまで読んだことがない人が書いた本を読んでみようと考えた。仮想通貨も流行って(?)いることだし、とりあえず時流に乗って資産運用の入門書かなーと考えて(かなり適当なチョイスで)、「銀行員が家族に勧める資産運用術」という本を手に取ってみた。

銀行員が顧客には勧めないけど家族に勧める資産運用術

銀行員が顧客には勧めないけど家族に勧める資産運用術

 

本書では、元銀行員で個人向け営業に精通している著者が、“顧客に勧めるときのアドバイス”と“家族に勧めるときのアドバイス”を対比したり、資産運用に成功している人の習慣や失敗してしまう人の特徴を説明しながら、本当に効率的な資産運用に取り組む方法についてやさしく教えます。

誰もが自分の力で資産運用を行なわなければならなくなっているいま、本当に正しい知識を身につけたい人、必読の基本書です。

とアマゾンの内容紹介に 書いてあったので、「ふーん、そうなんだ」あっさり納得。大体資産運用についてをまるで分かっていない素人には、それ以外の感想なんて持ちようがない。著者は元銀行で資産アナリストをしていた人物で、銀行が勧めている資産運用についてけっこう本格的にディスっているのが印象的。

実のところ資産運用の方法自体は最後から3番目の5章から始まっており、それまでは資産運用をする上での心構えを説いている内容が続いている。著者の基本的な考え方としては、自分が理解できないものには投資しないとあり、私としても「まぁ、そうだよな」としかいいようがない。

その他にもいつも平常心でいるとか一喜一憂しないなど、本当にありがちなことが記されており、自分の頭で判断するということが資産運用には最も重要なのが理解できた。その他には資産運用をする人が、やたらに美味しい情報を知りたがることや(インサイダー取引になるのでそんな情報流すわけがない、または美味しい情報を他人に教えるバカはいない)最低限の知識も知らずに投資を他人任せにしてしまう人が多いことを知った(何百万、何千万単位のお金を、しかも自分の老後資金であっても他人任せにするなんて信じられないが、結構そういう人がいるらしい)。

私は行動経済学が好きでは何冊か読んでいるので、投資の仕組みそのものよりも投資を売る側(買わせる側)にかなりの興味を抱いてしまった。また買う側としても投資信託を買っているのだけではなく、一緒に安心も買いたい人が多いことに目を惹かれたことも事実。だから売っている人の人柄が良いという理由でその信託を選ぶ人も多いらしい。個人的には自分が何に対してお金を払っているのかをはっきりさせずに、よく大きな買い物をできるもんだと逆に感心してしまった。

実家に闇金の取立てが来たことがあるので一時期詐欺についての本を集中して読んでいたのだけれど、2018年はそうした自分の興味がある分野ばかりではなく、お金の動きなどの実態経済について少しでも詳しくなる必要があるなと思わせてくる内容だった。 


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 ここ1,2年くらいは現実逃避も兼ねて尋常ではないくらいにロマンス小説(純愛からエロ描写ががっつりあるのまで色とりどり)を読んで、ノンフィクションなんかのジャンルを全く読んでいないなぁと、少々反省。

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「たとえ世界が終わっても」人生は続く、だらだらと

日本やアメリカ、イギリスは1980年代以降、新自由主義ネオリベラリズム*1)の考え方を経済政策に取り入れるようになりましたが、その結果起こったのが格差社会です。こういった状況を踏まえて書かれた本が、橋本治著の「たとえ世界が終わっても」なのです。

 

内容紹介

『“イギリスのEU離脱決定”と“ドナルド・トランプのアメリカ大統領当選”を見て、成長と拡大を求め続ける資本主義経済の終焉を確信したという橋本治。資本主義の終わりとは何か? その後を我々はどう生きるべきなのか? 「昭和の終わりと同時に日本経済は飽和した」「貿易なんて西洋人の陰謀に過ぎない」「国民はクビにできないので、企業経営感覚の政治家は容易に差別主義者になる」など、政治や経済といった枠を超えて次世代に語りかけるメッセージ』

 

 この本は、世界が大きく変わりつつある今、「その先」ってどうすればいいの?という問いに、橋本さんが優しく答えてくれている本です。

例えば高校生の娘と話す時や70代の母親と話す時に、自分の立ち位置というか、自分がどう考えているのかを、ふと自問自答してしまうことがあります。そんな時には、自分が昭和を引きずった考え方(昭和と平成の中途半端なミックスとでも言うのでしょうか?)というか、どこかで平成の持つスピード感や価値観になじみ切れない部分がベースになっているなぁという自覚があるのです。しかし最近は、それでも(平成に乗り遅れても)いいんじゃない、と思っている自分もいます。

この本の中で橋本さんは、「正義とは損得で物事を判断しない」ことだと書いているのですが、私はこの“正義”の部分に“大人”という言葉を当てはめたいなと思いました。「人とは損得で物事を判断しない」、つまり損を受け入れていくのが大人ではないかと。でもこうした考え方は、新自由主義どころか現代社会にすらそぐわないですね。

もちろん損得は非常に重要ですし、私自身、損得を無視しようというわけではありません。しかし物事の判断ベースの基準を損得とするならば、損をしないためには自他共に永遠に成長し続けるということが正しくなってしまいます。拡大し、成長し続けるものを肯定するということは、思い通りに育ってくれない子供や、自分自身が年を取って弱っていくことや、親が次第に老いていくことなども受け入れることが難しくなってしまうでしょう。(橋本さんの本の壮大な内容と比べると大分せせこましい考えですが)

 

平成の次の元号が何であれ、おそらく私はこれからも時代に遅れていくんじゃないかと思います。これまでそういう自分がなんとなく後ろめたかったのですが、橋本さんの本を読むと、「それでも全然いいんじゃない」と言ってもらったような気がしました。

 

 

 

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*1:国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重視を特徴とする経済思想

「高慢と偏見」に手が届かない私の読書遍歴 その2

ひとくちにロマンス小説とくくっても、実際はかなり幅があるのは確かだ。小説家の中には、ペンネームを分けて傾向を変える形で書き分けをしているやり方をする人がいて、その中でも特に愛読しているのがジェイン・アン・クレンツ、またの名をアマンダ・クイックだ。ジェインの時に書く小説は現代モノが多い。アマンダの時に書く小説は時代モノのヒストリカル・ロマンスが多いと思う。

彼女の場合、作品によってはハーレクインというよりもミステリー小説だったり恋愛よりの普通の小説だったりという印象が強いかな。ハンサムな大富豪や社長が出てこないし、基本的に突っ込みどころのある展開もない気がする。ヒロインもハーレクイン的な「超絶美人」ではなく、綺麗だけれどけっこう穏やかに話し合いながら恋愛関係を積み上げるタイプがほとんどだ。

そもそも私があまり日本人の書く恋愛小説を読まないのは、出てくる人物が恋愛脳なのが苦手だからだ。ハーレクインを読んでいるのに恋愛脳な登場人物が苦手なのはおかしいのだが、私にとってハーレクインは恋愛というより外国人が繰り広げる華麗なエンターテイメントに近い。日常生活にいちいち細やかに恋愛を絡ませた展開のある日本の小説は、読んでいて面倒くさくなってしまう。

もちろん「日本の小説にも良い本があるよ」という意見は多いと思うけれど、なんとなく日本の小説は「共感」に重きがおかれているような気がしてしまう。でも私には日常の少し先にある読書体験よりも、知らないところで一生会うこともないであろう人物がいろいろぶっ飛んで何かしている方が、読んでいてがぜん楽しいのだ。

私は共感が苦手な面がある。例えば昔母親が図書館でよく借りていた西村京太郎のトラベルミステリーを、最初の数十ページ読んだらすぐクライマックスを読んで犯人をはっきりさせてから真ん中を読むという変な読み方をしていた(もしくは読まない)。最後を読めば犯人が分かるし色々省略できるから、その方が落ち着くと考えていたのだ(とにかく大体の話が分かればいいので、細かい部分は気にならない)。

その悪癖は、ロマンス小説を読むようになってからようやく修正することができた。つまり40歳を過ぎてからやっと、話の筋というものを楽しめるようになったのだ。そもそもロマンス小説は基本の展開が一緒だから、途中を楽しめるようにならないと全部が同じ話になってしまう。

ベストセラーとか話題になった小説なんかは、基本的に「どこかいいところがあるんだろうな」ということにして終わらせる。又吉の「火花」は、雑誌に掲載されていたものを途中まで読んだけれど、なんか飽きちゃって全部は読んでいない。又吉が面白くないのではなく、私には彼のエッセイか俳句の本の方が俄然面白いのだ。だから「火花」なのか「花火」なのかを、いつも間違えそうになる。

「読書が趣味」と言えるようなきちんとした読み方をしていないので、これまで自分がどんな本を読んでいるのかを知られたくなかったのだけれど、新年を迎えてふと、「格好つけても仕方ないかな」と思った。ブログで「オススメの○○冊!」なんて書ける人が羨ましいが、これからも私は全く人には薦めるつもりのない本ばかりを読んでいこうと思っている。

 

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「高慢と偏見」に手が届かない私の読書遍歴

たまには読んでいる本について書いてみようと思うのだが、私の読書傾向はかなり偏っている。社会学関係と、それとは全く別にロマンス小説というか、いわゆる「ハーレクイン」を読むことがほとんとだ。

ハーレクインといえば、大富豪とウエイトレスが、偶然(!)出会って恋に落ちるみたいな話を思い浮かべる人が多いと思うけれど、まさにそんな話も読んでいる。ヒロインはびっくりするくらいよく妊娠して、それをヒーローに話せずに姿を消す。いやいやそこは2時間くらいホワイトボードとか使って話し合おうよ!と思うのだが、そうすると話が続かないので、やたらに消息をたつのだ。何年後に偶然(ホントかよ)ヒロインの消息を知ったヒーローが、「なぜ急に姿を消したんだ!」と詰め寄ると、お腹にはヒーローの子供が、もしくは傍らには小さな子供が...って話がこんなにもこじれているのは、明らかにオマエ(ヒーロー)が話を聞かないせいだよ!

  みたいな展開が楽しい。日本の恋愛小説とは違って、ヒーローが本気のドSで、種馬のごときの妊娠率を誇り、しかもやり捨て。最後はハッピーエンドといいつつ、やっぱりステーキとかぶ厚い肉をガンガン食べてると性格が激しくなるのかなーとか考えたりしている。あとヨーロッパとアラブの皇太子多すぎ!(アメリカとギリシャは大富豪ばっかり、ただし社長かCEOでも可)

ハーレクインではとにかくヒロインに行動力がないと話が進まないので(セッ○ス込みで)、その部分にもけっこう驚かされたりする。

でもそういった典型的なハーレクインとは別に、ヒストリカル・ロマンスと呼ばれるジャンルのロマンス小説も好きだ。これは基本的にはイギリスの貴族の恋愛模様で、とにかく階級による規制が厳しくて、決まりごとが山のようにある世界のヒロインたちが頑張るのだが、彼女たちが生存を賭けた恋愛を成就させる話といっても良いだろう。17世紀や18世紀といった時代小説の特徴は未婚女性の人権がないに等しいことだから、彼女たちは自分の人生のために、死に物狂いで結婚相手をハントしなくてはいけない。

分かりやすく言えば、「高慢と偏見」の世界なんだけれど、

これだと私には文学文学しすぎているので、

近い雰囲気のジョーゼット・ヘイヤーの本などを読んでいる。彼女の小説はヒストリカルの原型ともされ、1965年に書かれているのでラブシーンどころかキスシーンもない。しかも頑張って残り2ページまで読まないければヒロイン・フレデリカは自分の恋心にも気がつかないし、そこに至るまでに侯爵が何とか結婚を申し込もうとしている最中にフレデリカが思い悩んでいることといったら、健康増進に効くポークゼリーのことなのだ。でも、そこがよい

あとは子沢山が当たり前だったりする時代なので、3人兄弟どころか4人、5人とか平気で兄弟姉妹がいて、作家は順繰りに兄弟姉妹の恋愛を書いていく。これで終わりか?と思ったら、貴族の庶子父が認知した私生子)の恋愛編があったりするので、読んでいる方としたらスピンオフに次ぐスピンオフ感覚だ。うっかりしていると、友達やいとこの恋愛編が始まる。特に質・量共にレベルが高くて面白かったのが、ジュリア・クインのブリジャートン・シリーズで、8人(!)兄弟姉妹に加えて後日談まであるので、8人がそれぞれのお相手と恋に落ちて結婚し、家庭を持って子供が生まれるまでが楽しめるのだ。

 

そしてこういった物語のヒーローがデフォルトといっていいくらい備えている身体的な特徴が「胸毛」だ。とにもかくにも、皆ふさふさと胸毛をたくわえていて、ヒロインはそれに非常に高確率で官能的なときめきを覚える。この発見を娘に伝えたら、やたらウケていた。

ここまで書いて気がついたのだが、私は10代の時に母親が愛読していた「赤毛のアン」のシリーズを全巻愛読していた。アンの息子が戦争(第一次世界大戦)に従軍した時は、泣いたなー。

私が好むヒストリカル・ロマンス小説は、「赤毛のアン」の古めかしさにプラスして更に、がっつりラブシーンや官能シーンがプラスされている小説なんじゃないかと思う。

しばらく前に、アンを書いたルーシー・モンゴメリの「青い城」というヒストリカル・ロマンスを読んでみたら、官能シーンはないけれどラブシーンがなかなか素敵だったので(ヒロインは29歳崖っぷち未婚女性、美人じゃないけどユーモアセンスに長けている)、やっぱり私の読書の原点は実家の本棚にスラリと並んだ「赤毛のアン」シリーズかもしれないなと思う。

でも、モンゴメリに胸毛描写は無かったと思う。