ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

だらだら日記ーサンダルと正解が存在しない問題

9月15日 

日本では毎年約2万人、1日に90人あまりの人々が、自ら命を絶っているそうだ。
それは多いの?多くないの?全く判断できない。そしてその事実をどう感じたら正解なのかも、さっぱり分からない。まぁ正解なんて表現も、不謹慎だけどさ。

夜9時56分ごろ、新宿で人身事故があった。

mainichi.jp


自宅でぼんやりしていたら、娘から事故が原因でJR山手線が止まったと連絡があったのだ。幸い娘は家から数駅のところにいたので、今から歩いて帰るとのことだった。

びっくりしてネットで「新宿 人身事故」で検索したら、その時点では、速報でJR山手線新宿駅で人身事故が起きたということが報道されていた。
ふと思いついて、電車を利用していた見知らぬ人達の事故に関するツイッターのつぶやきのまとめを見た。そんなことをしながら、歩いて帰ってくる娘の心配をしていたのだけれど。

ツイッターでは、皆それぞれ勝手なことをつぶやいていた、当たり前だけど。中には感情ぬきで人身事故が起きたという事実のみをつぶやく人もいて、その冷静さには感心した。
その後1時間以上かかって、娘が帰ってきたのでほっとした。気持ちが落ち着いたら急に、自分が人身事故自体にそこまで関心がないことことに気づいてしまった。
見知らぬ人とはいえ、人間が亡くなっているのに。

私の心は人の生き死に、鈍感になっているのかな?
でもこの出来事に関してどう感じるかには、正解もしくは最適解は存在する?
娘は「新宿だからねー」説得力があるような、ないような意見を言って、寝てしまった。

ツイッターの投稿の中で、新宿駅のホームにサンダルが片方落ちている動画があった。サンダルが亡くなった人の持ち物なのかも分からないし、そんな動画投稿も不謹慎なのに、突然事故が起きたことがすごいリアリティを持って理解できた。あの場所で、私の知らない誰かが電車に飛び込んたってこと。

サンダルの映像というわかり易さに、あっさり納得するあさはかで単純な私。

それにしてもJRの職員さんは、さぞかし大変な1日の締めくくりだったろう。頭が下がる。

あの短い新宿駅のホームの動画は、二度と見たくない。それだけは強く感じた。

 

ご冥福をお祈りします。

 

 

ー追記ー

今日は18日。このニュースは他のニュースの中に、どんどんと埋もれてしまった。あっという間だよね。少し調べてみたら、誰ともしらない人が事故の動画を作成してネットにあげていた。やっぱり私には、正解が分からない。

 

きれいごとではなく、年をとるのも悪くないのかもしれないという話

年齢をとることで、失うものは大きいだろう。でも得たものはあるなと感じた。

 

ロシア・ウクライナ問題に関係あるようなないような

 

土曜日に昼過ぎまで寝ていた娘を起こすため、娘の部屋の戸をノックして中に入った。半分寝ぼけている娘に声をかけたら、「昨日あまり眠れなくて」という。話を聞いてみると、ロシアがウクライナに軍事侵攻したことにショックを受けてツイッターで情報収集をしていたら、よけい眠れなくなったそうだ。

まぁタイムリーとも言える話題。

この問題に関しては、ネットでは人々が様々な意見を表明している。しかし私は自分自身にたいした知識がないので、静観しているのが現状だ。不安を感じないと言えばうそになるけれど、とにかくロシアとウクライナの歴史上の関係もきちんと把握できていないし、国際情勢だって分かっていない。ないないずくしの人間に、まともな意見を出せるとも思えない。娘には、こんな感じのことを言った。しかし娘は、「自分は平和ボケしていた」という。ものごころついて初めて、国が他の国に軍事侵攻することを見たという事実に、けっこうに大きいショックを受けたとのこと。

娘と話していたらアメリカ同時多発テロ事件、いわゆる9.11からもう20年たったことに気が付いた。ハイジャックされた旅客機がワールドトレードセンターに突っ込む映像には物凄いショックを受けたよ。比べてどうこうということではないけれど、それなりに長く生きていると、悲しいことだが何度か世界を揺るがすような出来事を見ざるをえなくなる。そんな話もした。

 

世界は美しくないと知った日

 

私が一番驚いたできごとは、なんといっても1995年に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件だ。20代の多感な時期だったこともあって、世の中にはこんな悲惨な事件が起こることもあるんだと、本当にショックを受けたし、裁判の行方も注意していた。

私はあの日、人間という生き物はどんな恐ろしいことでもやってのけるのか!と初めてはっきりと知ったんだと思う。これは娘が生まれる前の出来事で、彼女にとっては、教科書という紙の上でしか知らないことなんだ!当たり前なはずなのに、あれは昔の事件なのかと軽く衝撃を感じた。

 

年をとるということ

 

今回のロシアの軍事侵攻に関して、私が娘が感じたほどのショックを受けていないのは確かだろう。たんに年をとることで、感性がにぶくなっているのかもしれない。しかしそれだけではなく、長く生きていると色々なことを見たり聞いたりする。

「世界は美しくないし、人間は自分の欲望を満たすためならたいていのことをやってのける」という事実を、悲しく静かに見つめることができるようになのかもしれない。

「正しくても正しくなくても、人間は生きて死んでいくんだよ」と言ったら、娘は少しだけ落ち着いたらしい。

 

ロシア・ウクライナに関係なかったです。

 

 

とりあえず、更新

前回の更新からずいぶん時間がたってしまい、もう面倒くさいからほっとけばいいかなーなんて考えていたのだが.....。

 

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嬉しいことに更新が滞っている現在でも、ブログ訪問者や読者登録をしてくれる方というのが、時々存在している(感謝)。

で、現時点において書けることも書けないこともあるのだが、養育費の調停に関しては先月決着がついたことを記しておきたい。相手、つまり娘の父親は、現在ある道で成功をおさめているので、養育費としては妥当な額を月々振り込んでいただけることになった。ただし面会に関しては、いまだもめているのが事実。

それから最近一番注目しているニュースとして、2020年度にスタートする高等教育無償化制度がある。5月に成立したばかりの制度だが、2020年4月から実施されるため、うちの娘はその恩恵にあずかることができそうだ。正直ありがたいとしかいいようがない。

 

ここ数年の私は、子ども教育費のことが大きく大きく心にのしかかっていた。うちの娘は成績がいいわけでも聞き分けがいいわけでもないに加えて、頑固で自分を曲げないタイプの人間だ。私と娘の性格を比べると、親である私の方が柔軟性があるんじゃないかと思う。

彼女にはやりたいことがたくさんあるのだけれど、彼女自身の体力や学力がともなわない部分があって、国公立大学はとても無理!というのが現状だったりする。私立大学で行きたい所を見つけたけれど学費の問題がのし掛かっていた。親である私が稼げればいいんだけれど、実力不足でそれもなかなか上手くいかず.....。こういったことから彼女の父親に対して養育費の調停を申し立てたというのが実情なのだ。

高等教育無償化のニュースに関しては色々物議をかもしているようだが、我が家にとっては素晴らしいニュース!これから母親として、受験のサポートに全力を尽くしていこうと決意している。

現代のリスクマネジメントについての話

 

正社員の待遇下げ、格差是正 日本郵政が異例の手当廃止:朝日新聞デジタル

高校生の娘がちょっと公務員的な未来を考えてるみたいだけれど、手のひらクルーがありそうなので親としては反対しとこうと思った。多分私みたいな親が、これから増えるだろうな。

2018/04/13 19:12

 上記の事柄に全然関係ないようで、私の中ではがっちり関連してくることとして少子化問題がある。少子化がいいとか悪いとかには全く関係なく、現代の若者はそもそも子供という存在に慣れていないということが気になるのだ。つまり子供という存在に慣れていないからこそ、子供自体にいい感情を持つことが難しいんじゃないかと思うのだ。

 

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娘の学校行事を聞いていると東京の学校では、学年の横割りではなく縦割りのグループを作って年齢の違う子供同士を馴染ませる試みが当たり前に存在している。ただしうちの娘は、特に一学年下の子達と交流するのがめちゃくちゃ苦手で「あいつ等ムカつく!」とブツブツ文句が多い。まぁうちは一人っ子で親戚づきあいもほとんどないため、近い年齢の子達との付き合いに慣れていないのも関係しているだろうな。

縦割り交流の話を聞いていると、学年を超えた付き合いが上手い子と下手な子にはけっこうな差があったりする。しかも必ずしも長子だから下の子の扱いが上手いというわけではなくて、どちらかといえば上に兄弟がいる子の方が何をするにも慣れているらしい(特にお兄ちゃんのいる次女はテキパキしている)。しょうがないので娘の文句を聞いてやりながら、ひとりひとりときちんと話せば気の合う子が絶対いるから!とアドバイスしておいた(実際面白い子がいたようだ)。

こうしたことから何となく想像できるだろうが、うちの娘は人間関係が器用なタチではない。そういうことを踏まえて将来どうするかなんてこと話しながら安定という意味で公務員も考えていたのだが、(郵便局は公務員ではないにせよ)公務員的な人生の危うさをひしひしと感じるようになって選択肢から消してしまった。ある日(まぁ前振りはあるだろうが)給料体系が変わるなんてことが起こったら、とてもじゃないけれど納得できないだろうし。

■

 

少子化なので今の親は少ない数の子供を大切に育てているし、娘の友達の話を聞くと今の子達は私たちが子供の頃のように兄弟やいとこ同士で派手にケンカをすることも少ないように感じる。これからも政府が手のひらクルーみたいなことをする可能性があるのならば、わが子を守りたい親は冒険なんかさせないだろう。上記のニュースのように正社員の手当てが政府の号令ひとつでなくなってしまう時代に、親はますます大事なわが子を囲い込んでいくと思う。子供はその安全さや快適性から離れることを怖がってしまい、自分が子供を持つどころか結婚することも冒険と考えるんじゃないかと予測してみた。

わが子に関しても、「(絶対欲しくないわけじゃないが)子供は(あんまり)欲しくない」と宣言されている。「とにかく自分ひとりの時間と空間がないと、耐えられない」そうだ。彼女は、プレッシャーにも弱いしね。

 

でも彼女にとっての危険な冒険ともいえる結婚に関しては、絶対にしたいそうだ。結婚していない叔父さん・叔母さんと接するうちに、いろいろと思うところがあったらしい。

 

「危険」のイラスト

 

これからますます少子化が進むことは予測されているけれど、原因としては「お金がない」ことが挙げられている。それはもちろんその通りなのだろうけれど、今の時代を生きる若者にとってお金うんぬんというよりも、子供を持つこと自体が喜びではなく予測できない大きなリスクを抱え込むことになるんだろうなと強く感じる。そして大事なわが子がそう考えるのなら、親としては余計なリスクを持たせたくないと孫をあきらめる人もいるだろう。

なんて面倒くさくて難しい時代が来たのだろうと、ため息が出てしまうよ。

お母さんの愛は弁当箱の形をしているー続・「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

前回のエントリーを書きながら、さらに深く「おかあさん」とは一体誰なのか?と考察してみた。

yuriyuri.hatenadiary.com

「おかあさん」という言葉を聞くと、何となく崇高で素晴らしい存在を思い浮かべたり、もしくは全く逆の飲み込まれるようなイメージを抱いたりと色々あるかと思われる。または無償の愛みたいなことを思い浮かべる人もいるかも知れない。しかし私自身「おかあさん」と聞いて思い浮かぶことは、今現在においては実用的なことだ。未成年の子供を持つ母親は子供の世話をすることが仕事なので、実際には感傷的なイメージの入り込む余地があまり多くない場合が多いのだ。

その最たるものが、毎日の弁当作りといえるだろう。私の娘は高校生なので既に身体的な世話がメインではない、しかし学校ではもう給食を提供してくれなくなっている。だから私は料理が得意なわけでもないのに、毎日弁当を作るのだ。私の娘にとってはふわーっとした思いやりよりも、(美味しいかどうかは知らないが)毎日きちんと弁当を持たせてくれるお昼代を潤沢に渡してくれるお母さんが、「良いおかあさん」といえるからだ。

 

ボリューム満点!  アンパンマンのお弁当セット

ボリューム満点! アンパンマンのお弁当セット

 

 

そうなると「おかあさん」という存在が正しく在るためには、「母親としての役割を果たすこと」が必要になってくるといえるだろう。つまり論理として進めるのならば「おかあさん」は別に現実に存在している母親でなくても、その役割を果たしてくれる人物なら誰でもかまわないという可能性が出てきてしまうのだ。前回私が問いかけた、「おかあさん」とは一体誰なのか?という問いの答えが、「おかあさん」の役割を果たしている人物となってしまうことに、ここにきて気がついたということになる。

もちろんこれは少々強引な理論であることも承知している。しかし人はつい、イメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たすことを混同してしまいがちなのだ。そしてここに来て厄介な代物として引っかかり、噛み下せないのが「」の一文字となってくるだろう。

」の意味合いとしては、ググってみると「かわいがる。いとしく思う。いつくしむ。いたわる」などが表示されてくる。しかしこれでもまだ漠然としているだろう。そもそも愛という文字を聞いて何を思い浮かべるかに関しては、千差万別としかいいようがないからだ。ただ一つ自分自身に関して断言できることとして、私の愛を示す具体的な形は弁当箱なのだ。正直自分の娘のためだからこそ、毎日毎日弁当を作り続けているとしか言いようがない。しかし私には他の人の愛がどういう形をしているのかに関して“人それぞれ”という逃げの一手を打つより方法が見つからないのだ。

こうしてとりとめもなく書いてはみたものの、ここまできたら話が全くまとまらなくなってしまった。そこで解決策として、「愛すべき娘たち」を書いたよしながふみの力を借りてみようかと思う。でもとりあえず力尽きてしまったので、この件に関しては次回に続く(と思う、多分)。

 

 

 

「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

今だに炎上中なのかは定かではないが、ちょっと意見を表明したいと思った件ですね。

母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える(中野円佳) - 個人 - Yahoo!ニュース

子育て時代は、どう言い繕っても自己犠牲が必要になる。それを上手く飲み込める人も飲み込めない人もいるから、モヤるんだと思う。「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃないからなぁ。

2018/02/05 21:09 

この私自身のブクマに書いてある“「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃない”という言葉から連想する作品として、よしながふみの「愛すべき娘たち」というマンガを挙げたい。

 

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 よしながふみといえばどうしてもテレビ化や映画化されている「大奥」の方が有名だけれども、実は彼女は素晴らしい短編の書き手でもあるのだ。この「愛すべき娘たち」という短編集に関しては、密かに彼女の短編の最高傑作ではないかと考えている。

よしながふみという人は、もともとジェンダーの問題に対して鋭い感覚を持って作品を描き続けているマンガ家だ。「大奥」で彼女は、徳川幕府の歴代将軍たちを男女逆転させた上で上手く史実を交えながら、違和感を感じさせずに世界を構築し、読者を引っ張っていくという離れ技を繰り出している。また彼女が「大奥」とは真逆のテイストで現在も連載している「きのう、何食べた?」は、平たく書いてしまえば「中年ゲイカップルの日常」を「これぜんぜんフツーのことですから」といわんばかりにシレっと描いてたりするのだ。

つまり彼女は自分が感じ取ったジェンダーに関しての違和感を、口あたりを良くしないで違和感という雑味のまま的確に調理する(表現できる)能力を持っているといえるだろう。初期の段階でそれを見事に証明してみせたのが、この「愛すべき娘たち」という作品だ。

このマンガでは主人公を限定しない形式をとって、ジェンダーに関連する5つの話がバトンを渡すように展開していく。全ての話の中でままならない現実と格闘する“娘たち”が描かれているのだが(2話目の主人公は男性、よしながふみはフラットな視点を持っているので)、自分と同じように苦しんでいる主人公たちに次第に共感したり反発したりと感情をつき動かされるであろう読者に向って、よしながふみは最終話で種明かしともいえるバトンを渡してくる。読者を含んだ大勢の“娘たち”の中に、母親が入っていることを明らかにしてみせるのだ。

「あたしおかあさんだから」の歌が炎上してしまった原因として、「あたしおかあさんだから」の歌の中で歌われる「おかあさん」とは一体誰なのか?という視点が、すっぽりと抜け落ちていることが挙げられる。炎上を支持した人の中には、自分が(もしくは知り合いが)「おかあさん」という生き物(もしくは生き方)であるという硬直した考え方の中に“閉じ込められる”ように感じた人が多かったのではないだろうか?そうした作り手側の限定された視点に対して、反射的に「NO!」という意見表明をした人が多かったことが炎上に繋がったのではと推測してみる。

「愛すべき娘たち」の最終話で、よしながふみは母親という存在を、「母というものは、要するに1人の不完全な女の事なんだ」と結論づけている。このマンガは2002年から2003年にかけて連載されていたのだが、10年以上たった2018年になっても「あたしおかあさんだから」を作った作り手側には、母親というものが1人の不完全な女、自分たちと同じただの人間だという視点が欠けていたのではないだろうか?

作り手側の頭の中にある「おかあさん」とは、もしかしたらどこにも存在していない想像の中だけの「おかあさん」なのかもしれない。

 

 

恋とはどんなものかしら?-続・ベッキーよりよっぽど気になったことがあったという話

前回の続きです。

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 もう少し書きたかったこと、前回あまり興味がないと書いたはずのベッキーについての話です。

 

私はベッキーにも不倫にもあまり興味をひかれなかったのですが、彼女とそのお相手の組み合わせを聞いた途端、反射的に思ったことがありました。それは

ベッキーって音楽で成功することを諦めて、“成功したミュージシャンの妻”になる方向にシフトチェンジしたのかな」ということです。

ベッキーが歌手ベッキー♪♯としてCDを出していることは知っていましたが、正直どんな曲だったのかは思い出せません。試しに聴いてみましたが、可もなく不可もなくという印象でした。正直歌手・ベッキ♪♯ーよりタレント・ベッキーの方が何倍も魅力的だと思います。(大体ベッキーの後についている♪♯からしてちょっとダサい・・かな。ファンの方すいません)

タレント・ベッキーは確か音楽番組のMCもしていますよね。でも歌手・ベッキーは音楽番組にしょっちゅう出てくるというわけではないようです。(私が知らないだけ?)

反対にゲスの極み乙女というバンドの川谷絵音という人は、彼の音楽センスというか才能で売れた人です。いわゆるイケメンでもないわけですし、何がベッキーをひきつけて不倫へとつきすすませたのか、どうして“彼”でなければいけなかったのか。だってベッキーは十分美人で努力家で、画面で見る限り賢そうだし、多分モテると思います。

そのベッキーが努力しても手に入れられなかったのが“売れっ子ミュージシャンとしての自分”なのではないかと。

これはあくまで私の勝手な推測ですが、自分が思い描いていたような音楽活動ができないベッキーは、その代わりに売れっ子ミュージシャンを支える彼女そしてのち妻になることで自分自身を納得させようと、折り合いをつけようとしたんじゃないかなぁと。

ベッキーに限らず、人は手が届かないものやどうしようもないことにぶちあたった時、諦める代わりに心酔する、つまり(対人においては)恋に落ちるという方法をとることがあります。

イソップ童話のすっぱいブドウの話のように「あんなもの本当はたいしたことない、欲しくない」といって悪態をつくやり方をする人もいますが、全く反対にキャー素敵!とうっとりして無抵抗になってしまう人もいます。ベッキーはお年頃ということもあり、後者の恋に落ちる方式をとったんじゃないのかなーと思ったわけです。

そうすれば彼女の音楽に対しての思い入れもミュージシャンの妻として音楽に関わりながら彼の音楽活動を支えるといういい感じでおさまるわけですし、そろそろ結婚どうしよう問題も解決できる。ベッキーにとっては一石二鳥だったんじゃないかと想像してしまいました。

でもこれはあくまで私が勝手に考えた“ベッキーはなぜ彼を選んだのか”の推測なので、勿論実際はわかりません。

 

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タレント・ベッキーも歌手・ベッキー♪♯も彼女にとっては大切な自分であり、どちらのベッキーも恋することができる相手が“彼”だったのかもしれませんね。