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「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

今だに炎上中なのかは定かではないが、ちょっと意見を表明したいと思った件ですね。

母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える(中野円佳) - 個人 - Yahoo!ニュース

子育て時代は、どう言い繕っても自己犠牲が必要になる。それを上手く飲み込める人も飲み込めない人もいるから、モヤるんだと思う。「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃないからなぁ。

2018/02/05 21:09 

この私自身のブクマに書いてある“「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃない”という言葉から連想する作品として、よしながふみの「愛すべき娘たち」というマンガを挙げたい。

 

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 よしながふみといえばどうしてもテレビ化や映画化されている「大奥」の方が有名だけれども、実は彼女は素晴らしい短編の書き手でもあるのだ。この「愛すべき娘たち」という短編集に関しては、密かに彼女の短編の最高傑作ではないかと考えている。

よしながふみという人は、もともとジェンダーの問題に対して鋭い感覚を持って作品を描き続けているマンガ家だ。「大奥」で彼女は、徳川幕府の歴代将軍たちを男女逆転させた上で上手く史実を交えながら、違和感を感じさせずに世界を構築し、読者を引っ張っていくという離れ技を繰り出している。また彼女が「大奥」とは真逆のテイストで現在も連載している「きのう、何食べた?」は、平たく書いてしまえば「中年ゲイカップルの日常」を「これぜんぜんフツーのことですから」といわんばかりにシレっと描いてたりするのだ。

つまり彼女は自分が感じ取ったジェンダーに関しての違和感を、口あたりを良くしないで違和感という雑味のまま的確に調理する(表現できる)能力を持っているといえるだろう。初期の段階でそれを見事に証明してみせたのが、この「愛すべき娘たち」という作品だ。

このマンガでは主人公を限定しない形式をとって、ジェンダーに関連する5つの話がバトンを渡すように展開していく。全ての話の中でままならない現実と格闘する“娘たち”が描かれているのだが(2話目の主人公は男性、よしながふみはフラットな視点を持っているので)、自分と同じように苦しんでいる主人公たちに次第に共感したり反発したりと感情をつき動かされるであろう読者に向って、よしながふみは最終話で種明かしともいえるバトンを渡してくる。読者を含んだ大勢の“娘たち”の中に、母親が入っていることを明らかにしてみせるのだ。

「あたしおかあさんだから」の歌が炎上してしまった原因として、「あたしおかあさんだから」の歌の中で歌われる「おかあさん」とは一体誰なのか?という視点が、すっぽりと抜け落ちていることが挙げられる。炎上を支持した人の中には、自分が(もしくは知り合いが)「おかあさん」という生き物(もしくは生き方)であるという硬直した考え方の中に“閉じ込められる”ように感じた人が多かったのではないだろうか?そうした作り手側の限定された視点に対して、反射的に「NO!」という意見表明をした人が多かったことが炎上に繋がったのではと推測してみる。

「愛すべき娘たち」の最終話で、よしながふみは母親という存在を、「母というものは、要するに1人の不完全な女の事なんだ」と結論づけている。このマンガは2002年から2003年にかけて連載されていたのだが、10年以上たった2018年になっても「あたしおかあさんだから」を作った作り手側には、母親というものが1人の不完全な女、自分たちと同じただの人間だという視点が欠けていたのではないだろうか?

作り手側の頭の中にある「おかあさん」とは、もしかしたらどこにも存在していない想像の中だけの「おかあさん」なのかもしれない。