ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

9月が終わる

私は子供の頃母と手をつないで歩きたい子どもだった。しかし私の母は、自分の子であっても手をつなぐことを非常に嫌がる人だった(つなごうとした手を振り払われるなど)。

その反動なのかわからないのだけれど、 私は娘と一緒にでかける際に当たり前のように手をつないで歩く。そこに「愛があるかどうか」なんて定かでないのだけれど、娘が高校生になった現在も私たちは手をつないで外に出かける。


ところで私は、自分の両親と情緒的に満たされた関係を築くことができなかったように感じている。もちろん片方の意見だけでは決められないが、親子の情緒的な面に関して(死んだ父親も含めて)親がどう感じているか突っ込んだ話し合いをするのは、なんとなく危険な気がしてならない。ただしその理由として、私自身はお互いの努力不足というよりも親子としての相性問題が大きいのではないかという結論を出しているのだけれど。


そんな私が娘を育てていく上でもっとも注意しているのが、自分の親との関係をそのまま応用しないということだ。応用というか投影と表現すればよいのだろうか?

具体的には、私は彼女(娘)じゃないし娘も私じゃないということ。当たり前だけれど、娘をたしなめたりケンカしたり時には、そこ(自分が子どものころの経験)と自分が親として子どもにすることがごちゃごちゃになりやすい(例:私が子どものころには、黙って親のいうことを聞いたとか)。それに同性だから分かってくれるだろうという私自身の甘えも、かなり大きいんじゃないかな。

 

調停を申し立てようとした背景としては、金銭面がダントツに大きい。しかしそれとは別に、彼女(娘)が自分の父親と会ったことがないということが、私と比べてフェアではないと、母親である私自身が考えていることも同じくらい大きいのかもしれない。

何年も何年も前から、自分の父親がどういう人物なのかを娘が自分自身で判断すること、そこが非常に重要ではないかと考えていた。

私と娘の父親との関係は離婚という形で幕を閉じたのだけれど、娘と彼との関係はまだ始まってもいない。そこにはオトナの事情というものがあるにせよ、そのことは娘にしたら全くもってフェアではない。だから娘は自分で父親に会った後に、自分の父親のことが好きか嫌いか、父親とどういう関係をつくっていくのかいかないのかを(自分で)決めればよいと思っている。

私から見た夫としての彼の姿は最悪なのだけれど、娘から見た姿は多分全然違うだろうな。でもそれからどうするのかは、娘が自分の父親に実際会ってからの話。

 

こんな風に格好良いことを書いてみたものの、実のところ事態はあまり進展していない。

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 

とりあえず明日(10月1日)から新しい仕事に行くことが決まっているので、仕事の研修が終わって少し落ち着いたら、調停に関することを進めたいと考えている。