○○じゃないほうについての話ー又吉直樹の『東京百景』
又吉の『東京百景』を読んだ。
本屋でふと手にとってみたというのが正確なところではある。それに告白すると半分くらいしか読んでいない。全部読むには私の又吉への愛が足りない。つまり好みの文章ではないということだ。だから彼の出世作の『火花』も読んでいない。
雑誌に掲載された時にパラパラっとページをめくってみて、「あーなるほどね」で終わった。とても雰囲気のある作品だと思う。嫌いというより、要は「ピンとこない」ということなのだが。
でもこのエッセイを読んでいるとこの又吉と言う人は、相方の綾部よりもずっと我が強い人なのではないかな?と感じた。かなりゆるぎなく自分があるタイプなので他人に流されないというか、他人と交わる気がないというか。それは作家として悪いことではないし、むしろこの人は作家にすごく向いていると思った。(偉そうな私)
彼のエッセイを読んだ編集者がその文章にほれ込んで、何年も(!)かかって口説いて小説を書かせたそうだが、この本を読めばさもありなんと言いたくなるね。余白も行間もないくらいに、どこを読んでも書いた又吉の味と匂いがする。例えるなら金太郎飴とでも言うのか、著者の自我がちりばめられているのだ。それは読めば分かるとしか言いようがない。
個性的というのではなく、文中で本人も書いているのだがいかに自分の個性を消すかということに努めているのにもかかわらず、努力すればするほどにじみ出てくる又吉臭とでも言えばいいのか。おそらく誰が書いたと知らせずに本を読んでも、又吉が書いたと分かるくらいに文体が完成されていると思う。
この人はお笑い芸人というより、精神的にはお笑いの才能のある作家なんだと思った。しかも純文学だよ。今はお笑い芸人に世の中の才能のある程度が集結している時代なんだろう。
そしてそこから連想していくと昔の作家ってこういう又吉みたいな人がいたかもしれないなぁと。なんか夏目漱石とか又吉の大好きな太宰治も知り合いだったら高確率で面倒な人そうなイメージがあるし。
そんなことを好きに書き散らしながらも、実は又吉の作った俳句は割と好きだったりする。
私にはどうしても一種の臭みと感じられる彼の文学性が、俳句になると程よく薄まるというか、上手に五・七・五という揺ぎない大きなお皿の上に綺麗に盛り付けられるというか.....。
今日はそんな感じです。