ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

リアリティは人を救わない-魍魎の匣(はこ)*追記あり

昨日は雨模様な1日だった。ひと雨ごとに秋が深まり、まだ姿見えない冬の到来を、微かに予感させる。

秋は、物悲しさが似合う。そんな季節は、誰かと何か他愛のないことを話したくなる。

嘘の東京の話

10年以上遅れて京極夏彦に嵌まった。彼にこれまでの私自身の本の読み方を変えられてし
まった。

私は本を読むのが早い方で、とりあえずどんどんページをめくってしまう。速読はできないのだが、全体としてざっくり意味をとることができれば満足だった。だから推理小説は、初めの事件の発端を読み、真ん中の辺りを読んだら結末を読んで落ち着いてしまう。(作家の方およびミステリーファンの方々すいません)
その本が、かなりの出来映えだと思わなけれは、それきり読まなくなってしまう。

ところが京極夏彦の小説といったら、知る人ぞ知る『レンガ本』(あまりに本に厚みがあって、形がレンガに似ているため)。もし今までの様にパパッと話の筋だけ分かれば自分が満足する、みたいな読み方をしたならば・・・。
延々と続く素晴らしきうんちくはただの余分に過ぎなくなり、本の厚さは半分になってしまうだろう。それはもう、京極夏彦の作品ではない。

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

彼の書く、太平洋戦争後しばらくたった、雑然とした東京で起こった猟奇的な事件の話は、おぞましい輝きを放つ。存在しない東京での、存在しない事件の話、嘘の物語を成立させるために必要なのは、リアリティではなく、博覧強記な知識をパズルのように組み立てていく知性の力だ。

その上にゆらゆら浮かびあがるだまし絵のように、嘘の東京が出現する。


「幸福になりたいなら、人であることをやめてしまえはいい」と彼は言った

誰一人幸せになれなかった事件の登場人物の中で、ただ一人至上の愛を手に入れた人物について、別の一人が言った一言だ。京極夏彦の筆力をもってしても、読者に幸せな結末を約束してくれないらしい。


ネタバレあり










鉄のハコに入った、手も足もない美しい少女とそのハコを抱いて旅する男。
そんなことありえないのに、私は本に書かれた二人(?)の儚い姿を、鮮やかに思い浮かべることができる。何一つ羨ましくはないはずなのに、自分のまぶたの裏に見えるその光景に、胸をかきむしられるような気がして仕方がない。

途中から、本のページをめくる手がもどかしいくらい夢中になって読むのが嬉しくて嬉しくて!正直前巻の「姑獲鳥の夏

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

は、私にとっては「人間は結局、見たいものを見たいようにしか見ない(真実を知りたいわけではない)」と言うことを人に説明するのは、こんなにも手間がかかる、という話だったりするので。

京極夏彦は私を救う
私はどうやら京極夏彦の造ったリアルではない世界(嘘の東京の話)に癒されるようなのだ。存在しない人物や出来事を成り立たせるための膨大なうんちくを黙って飲み込む。そうすれば見えないはずの美しい世界が見えてくる。

別に救ってもらおうとして、読み出したわけではなかったのだが、私はむきだしの事実よりも、よく出来た嘘の方に心を満たされるタイプらしい。


実は私はドキュメンタリー監督の森 達也さんの本や映画を見たりするのだが、

A [DVD]

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を見たりすると、そこに出てくるオウム真理教の信者の人々のあまりの普通さにとまどってしまう。それが監督の狙いの一つなのは理解できるけれど、リアル世界のあまりの複雑さにグッタリする。

複雑なものを整理して、分かりやすくすようとすると、少しだけ何かが変質してしまうと思う。それがいやで、複雑なものを複雑なまま受け取りたいと考えている。分からないものや人は、分からないままに。時間と知識を見方につけて、ゆっくり解きほぐす方法でいきたいのだ。


なかなか遠大な目標を掲げつつ、私はハコに入った少女を抱えて旅する男になった夢をみる。