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放送大学に関すること、及び読書その他についてをゆるゆると語る

「建前を大事にしなさい。陳腐でも正しいことを建前と言うのだから」

ブログタイトルにした言葉は、「愛すべき娘たち」の第3話から抜き出してみた。

yuriyuri.hatenadiary.com

 

前回のエントリーでは、「人はイメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たす「母親」という役割を混同してしまいがち」で、その混乱には「」の一文字が深く関係してくると書いた。しかし多くの人は愛という一文字を聞くだけでも、おそらくプラスにもマイナスにも大きくイメージが膨らんでしまうだろう。私の力だけでは「おかあさん」と「母親」と「愛」という三つ巴に対して、どうにも太刀打ちができない。

ここで私はよしながふみの「愛すべき娘たち」の莢子という女性に登場してもらうことにした。

莢子は美人で建築家という専門的な職を持ち、かつ性格も穏やかというパーフェクトな女性。周囲に彼女を嫌う人間はいない。彼女は、「そもそも人は皆良い所も悪い所も持っているんだもの」というが、建前上はもちろんその通りだろう。この言葉は、100%正しい。そしてだからこそ彼女は、誰かを特別に好きになることができないという結論に達してしまうのだ。しかも彼女は自分が心から惹かれた男性を選ぶことができないことを知り、今後の人生におけるある大きな決断をせざるを得なくなるのだ。この決断に関して、初めてこの話を読んだ時はけっこうな衝撃を受けた記憶がある。(莢子がした決断に関しては、ネタバレになってしまうので最後に)*1

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莢子は女友達に、「恋をするって、人を分け隔てるという事じゃない」と言う。私は莢子を通じてよしながふみが読者に投げかけたこの「恋」に関する定義に、強いショックを受けた。ためしに恋でググってみたら、異性に愛情を寄せること、その心。恋愛と表示された。しかしよしながふみは「愛すべき娘たち」の読者に対して、恋に関する全く違う方向から見る景色を提示してみせたのだ。

もちろん恋や恋愛は愛とイコールではないが、人を分け隔てるという角度で捉えるのなら、親が子供に注ぐ「愛」もまた、自分の子供と他人の子供を区別していることだと捉えることができるだろう。つまりイメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たす「母親」を混同してしまいがちになる理由として、実際の役割を果たす「母親」がこの分け隔てを比較的スムーズに(或いは無意識に)行ったり行わなかったりしているからではないのか?だからこそ「おかあさん」という言葉が持つイメージに対して、多くの人々は無意識に、人を分け隔てる(愛される特別な存在)という意味合いを持って「愛」という言葉を使っているのではないだろうか?だからこそ「愛」という言葉を聞くと、プラスであれマイナスであれ何かしらイメージが大きく膨らんでしまうのでは?と推測してみた。

タイトルにある「建前を大事にしなさい。陳腐でも正しいことを建前と言うのだから」という一文は、莢子の祖父が生前彼女に言っていた言葉として書かれている。彼女は祖父を非常に敬愛し、その言葉を大切にして生きてきた。しかし自分の行動に責任を持つことを良しとした祖父の教えに従った結果、彼女は誰か一人だけを選んで愛しわけ隔て)共に生きることができない自分に気がつくのだ。

ここまではよしながふみの手助けを借りてなんとか進めてみたものの、これだけではまだまとまりがない印象が大きいと言えるだろう。しかし私の推測ではこの辺りが精一杯としか言いようがなくなってしまったので、とにかく締めようと思う。

 

 

*1:結局莢子は俗世を捨てて修道院に入り、カトリックのシスターとなる