ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

「高慢と偏見」に手が届かない私の読書遍歴 その2

ひとくちにロマンス小説とくくっても、実際はかなり幅があるのは確かだ。小説家の中には、ペンネームを分けて傾向を変える形で書き分けをしているやり方をする人がいて、その中でも特に愛読しているのがジェイン・アン・クレンツ、またの名をアマンダ・クイックだ。ジェインの時に書く小説は現代モノが多い。アマンダの時に書く小説は時代モノのヒストリカル・ロマンスが多いと思う。

彼女の場合、作品によってはハーレクインというよりもミステリー小説だったり恋愛よりの普通の小説だったりという印象が強いかな。ハンサムな大富豪や社長が出てこないし、基本的に突っ込みどころのある展開もない気がする。ヒロインもハーレクイン的な「超絶美人」ではなく、綺麗だけれどけっこう穏やかに話し合いながら恋愛関係を積み上げるタイプがほとんどだ。

そもそも私があまり日本人の書く恋愛小説を読まないのは、出てくる人物が恋愛脳なのが苦手だからだ。ハーレクインを読んでいるのに恋愛脳な登場人物が苦手なのはおかしいのだが、私にとってハーレクインは恋愛というより外国人が繰り広げる華麗なエンターテイメントに近い。日常生活にいちいち細やかに恋愛を絡ませた展開のある日本の小説は、読んでいて面倒くさくなってしまう。

もちろん「日本の小説にも良い本があるよ」という意見は多いと思うけれど、なんとなく日本の小説は「共感」に重きがおかれているような気がしてしまう。でも私には日常の少し先にある読書体験よりも、知らないところで一生会うこともないであろう人物がいろいろぶっ飛んで何かしている方が、読んでいてがぜん楽しいのだ。

私は共感が苦手な面がある。例えば昔母親が図書館でよく借りていた西村京太郎のトラベルミステリーを、最初の数十ページ読んだらすぐクライマックスを読んで犯人をはっきりさせてから真ん中を読むという変な読み方をしていた(もしくは読まない)。最後を読めば犯人が分かるし色々省略できるから、その方が落ち着くと考えていたのだ(とにかく大体の話が分かればいいので、細かい部分は気にならない)。

その悪癖は、ロマンス小説を読むようになってからようやく修正することができた。つまり40歳を過ぎてからやっと、話の筋というものを楽しめるようになったのだ。そもそもロマンス小説は基本の展開が一緒だから、途中を楽しめるようにならないと全部が同じ話になってしまう。

ベストセラーとか話題になった小説なんかは、基本的に「どこかいいところがあるんだろうな」ということにして終わらせる。又吉の「火花」は、雑誌に掲載されていたものを途中まで読んだけれど、なんか飽きちゃって全部は読んでいない。又吉が面白くないのではなく、私には彼のエッセイか俳句の本の方が俄然面白いのだ。だから「火花」なのか「花火」なのかを、いつも間違えそうになる。

「読書が趣味」と言えるようなきちんとした読み方をしていないので、これまで自分がどんな本を読んでいるのかを知られたくなかったのだけれど、新年を迎えてふと、「格好つけても仕方ないかな」と思った。ブログで「オススメの○○冊!」なんて書ける人が羨ましいが、これからも私は全く人には薦めるつもりのない本ばかりを読んでいこうと思っている。

 

yuriyuri.hatenadiary.com