あっちとこっちの話ー『眩談』京極夏彦
久しぶりの京極夏彦の本。8編からなる怪談(?)というのかな...。
これはまぁ何というのか、“面白くて、おススメ!”といった類の本ではない。
京極堂シリーズのように、夢中になるような大きな事件も起こらないし、魅力的な人物もでてこない。ではどんな本なのか?
家の奥の間の、古い箪笥の上の置いてあるヘンな人形を祀っている話(シリミズさん)とか、ひなびた温泉にふらりと行って、マッサージをしてもらったら台の下に誰だか知らない老人がいるとか。(杜鵑乃湯ーほととぎすのゆ)ものすごく怖いというわけでもなく、事件らしきものが解決するわけでもなく、いやもしかしたら最初から何も起こっていないのかもしれない。(むかし塚)
書かれている時代はおそらく少し前、そう昭和の辺りのような。そして田舎の話が多いのかな?あやふやな記憶をたどると、急にはっきりとした形でおぞましい何かが予告もなしに出現する。
ちょうど私が子供のころくらいの時代の雰囲気だ。学校の先生は平気で生徒を殴っていて、親は子供にとって絶対的な存在で、逆らうなんて考えたこともなかった。そんな大人たちに反抗するのはヤンキーと呼ばれる子たちだったし、町内には一軒や二軒の通じない人が住んでいる“困った家”もあった。そんな風な中途半端な所の地方都市ことを思い出したりする話。
ところで作者の意図としては、家のドアとかふすまを開けたら急に異世界がそこにある、ということを書きたいのではないかと推測してみる。それらはファンタジックでもめくるめいてもいないし、おどろおどろしいとも少し違う。ただそこに“存在している”だけで、別に何を主張するわけでもない。
“あっち”と“こっち”には実は大した違いなどなく、人は時として容易に“こっち”から“あっち”に行ってしまう。前に読んだ本で『厭な小説』では、
ひたすら厭な気分になって、途中でとうとう読むことを止めてしまったのだが(それが狙いの本)、『眩談』は厭な気分になる手前のグラデーションの気持ちのことを書こうとしたのかもしれない。話によって色の薄い濃いがあるのだが、いずれもはっきりしない曖昧な気分(決して良くはない)を、どこにも着地させずに、話によってはその辺にほったらかしにすることが作者の狙いな気がする。私の私的な結論として、京極夏彦は多分、というより間違いなく変わった人だと思うな。《全然本の感想になっていない(^д^)》