ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

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桜色の嘘

ナチュラルティストはお好き?

橋本治さんが書いた古典に関する本を読むことで、和歌に興味が出て来ました。そして和歌の中でも万葉集は人気が高いです。

万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

万葉集 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 

 百人一首にもある柿本人麻呂の歌とかが有名ですよね。

   あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の

          ながながし夜を ひとりかも寝む

  <山鳥の尾のようにえんえんと長い夜を ひとりで寝るのか>

という、まぁいうなれば、読んだそのままの意味の歌です。万葉集は基本的に心の高まりをそのまま詠んだ歌がほとんどなので、そののびやかさは受け容れられやすさにも通じているようです。ナチュラルってやつですよね。

 

でも私個人としてはこの歌を本歌取り*1した後鳥羽上皇

   桜さく 遠山鳥の しだり尾の

          ながながし日も あかぬ色かな

 <桜が咲いている ずーと見ていても飽きないな>

という歌の方が好きなんですよ。

 

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柿本人麻呂の歌っている「さみしいなぁ」という素直な気持ちは悪くないと思います。しかし後鳥羽上皇が「桜っていいよね」と言っているだけの“桜を見て悠然としている自分というものを歌う”というどこか雅な雰囲気の方が、私には好みにあうようです。

後鳥羽上皇新古今和歌集の編纂を命じた人物で、新古今和歌集は当時の流行の最先端を行くような美学を集めたものだそうです。だから本歌取りは勿論のこと、和歌の技巧としても非常に凝った歌が多いです。それを「すごい!」と言う人と「絵空事だ」と言う人に真っ二つに別れるとのことです。

「絵空事だ」派の人々には新古今和歌集の世界がうそ臭く感じられてしまうのかもしれません。私は「すごい!」派というか自分の感情を直接的には詠まずに、絵としての景色を詠む、というやり方の方がかえって伝わることが多いのではないかな?と思う派かな。(長い)

柿本人麻呂の歌は、その瞬間の感情を歌っていますが、後鳥羽上皇の歌は、春のある一日の自分というものを歌っている。だからどちらというより単純に好みなのでしょう。

後鳥羽上皇鎌倉幕府に対して「承久の乱」を起こして敗北し、隠岐の島に流されたけれどもあきらめないという、文武両道なおかつ陰謀の人だったりするので、桜が綺麗と言っても本当にそれだけしか考えていないのか?みたいなうさんくささはありますね。

ですが私は、そんな後鳥羽上皇の紡ぐ多少嘘くさい(かもしれない)桜色の世界を楽しもうと思います。

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 

*1:有名な古歌の一部を取り入れて、新しい歌を作り出す技法