ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

ロマンチックと私の本当に間柄について

 

ロマンチックについての2,3の考察

少し前にブログタイトルを変更したのだが、(最初に自動でつくタイトルのままにしていた)ロマンチックを知らせる回覧というのはどういう意味なのかということと、そもそもロマンチックという言葉を私はどのようにとらえているのか、ということを説明しようかと思う。少々面倒になるけれど、おつきあい下さい。

私はロマンチックを楽しむということを、陶酔能力があるという意味で使っている。解りやすい例でいうと、恋愛だ。この世界で特別な私とあなた、という思い込み(というと失礼なのかな、すいません)がある程度ないと、恋愛関係というものは大変成立しにくい。

 

 どうも私はその陶酔能力に欠ける部分があり、恋愛を人間関係の一つで(ここは間違ってないと思う)特別というよりも個別契約くらいに感じている“らしい”。

らしいというのは、これまでの乏しい経験から推測すると、どうもお相手との間に気持ちの上でのギャップを感じることが多かったからだ。まずいことにそのギャップというのは人を問わず、というところがあり、それゆえに相手が私に失礼な行動なり言動をしたりすると(男らしい言動?)、一気に冷めるというか、厭になるのだ。要は“契約違反”なので、ちょっと待って下さい。どうなってるんですか?責任者よんで!(この場合は相手男性)てな具合である。

まぁ恋人同士にありがちな“男女の親密な関係”を前提とした男性のグイグイ上から来る感じ(というかあれは恋人プレイとか言えばよいのか?)は、好きな人にはたまらないのかもしれないが、私とっては「何が悲しくていちいち相手のプライドをたてなくてはいけないのか?まぁ面倒くさいから言うことを聞くけれどさ......」になる。

 

この面倒くさいし、ことを荒立てたくないがゆえの、『黙って言うことを聞く』が結局はもっと困った事態を招いていたことに気がつくのはかなーり後の方だったことと、人間というものは基本、黙っていうことを聞く人のことを“好きで聞いている”とか“何も不満はない”と受け取る、ということがやっと理解できた私は、その相手がどんなことを考えているのかを自分の基準で決め打ちしてくる傾向、ざっくり物事に陶酔することができる能力のことを密かに“ロマンチックなふりかけ”をかけるのが上手いと呼んでおり、いろいろそういうことが広く世間で行われているらしい(伝聞推定)のを『ロマンチックを知らせる回覧版が私の所まで回って来ない』と名付けてみたわけだ。

 

そしたら最終的にはどうなるのか?

物凄いことになるのである。こちらはたまったつけの回収する勢いで、「どういうことだよ、やってられるか!」になり、向こうはブチ切れる、ということになる。最初は変だなぁ、私の番は、いつ回って来るんですか?という感じでやんわりと尋ねたりするところからいってるつもりでも、相手にしたら“寝耳に水”になるらしい。いやいやそんなに一方的な関係が成立するわけないじゃん、というのはもはや通じないらしい。そんなばかな.........。

 

ここまででなんとなく想像できたとは思いますが、私はバツイチです。

おわりに

最近ではもう、自分の考え方が多少ズレているのやっと納得したので、ひっそりと生きてます。ロマンチックを知らせる回覧版が私のところまで回って来る予定は多分ないだろうけれど、特に困ってないといえばないのでこんなもんかなぁと思っていますね。

 

じたばたしても仕方ない

じたばたしても仕方ない