ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

父親に性的トラウマ(のようなもの)を植えつけられた話

今年になって衝動のままに、もう一つのブログを書き始めた。これはロマンス小説の感想ばかり書いているので、興味ない人には全く興味が湧かないだろうと別にわけてある。(読書備忘録

ほぼ誰も読んでいないにもかかわらず、こちらのブログよりもこまめに更新していることを、我ながら「何故なんだろう」と考察してみた。

1.好きな分野のことだけを書いている。

2.エロ描写について、熱く語っている。(要は自分の性的な興味について、意識的に許容部分を広くしてみた)

特に2に関しては、ブロク更新の大きな理由となっているのではないかと思う。(リンゼイ・サンズクレスリー・コールエリザベス・ホイトのセクシーシーンは、なかなか積極性に満ちている)

話は突然変わるが、このブログにも以前出てきた父親のことについて、個人的に感じていたことを書いてみる。

父親の性的な事柄に関しての態度というか色々な物事に対するあり方というものが、子供の私から見てもちょっとどうかなと思うくらいに厳しい(というより理解できない)人だった。その影響なのかな?自分の読んだ本の中でのエロティックな描写に関して正直な感想を書き記すということを、この年になるまで考えたことがなかった。

高校1年生の時に行った家族旅行で民宿みたいな所に宿泊したことがある。私達家族は夕方まだ早い時間に着いておのおのくつろいでいたので、私は民宿の公共スペースに置いてあるマンガを読んでいた。時間がたつに連れて、他の宿泊客たちがその民宿にやってきた。マンガの置いてある公共スペースは民宿の入り口近くにあるため、私はマンガを読む合い間に到着した他の宿泊客に、なんとなく目を向けたりもしていた。そこで事件が起こったのだ。

父親が私の目の前にやってきたかと思うと、突然私の頬を引っぱたいた。大勢人がいるせいなのか、そんなにも激しく叩かれたわけではないことを何となく覚えている。しかしそれなりに痛かったこと、理由がまるで分からなことが相まって私はポカンとして目を上げて父親を見た。そんな私に向って父親は「○○子は(私のことだ)、(入ってきた)男のことをじっと見た!」と言って非常に怒っていた。

見るも何も私自身は入り口近くの公共スペースに座ってマンガを読んでいるため、入り口が開いて知らない人が入ってくればそちらに目が向くこともある。後から考えると多分父親は、娘が男のことを見た(男に目がいく=ふしだらなことを考えている“はずだ!”)と発想がななめ上に飛躍したんじゃないかと思うのだ。思うのだといっても、正直なところ当時高校生だった私は本気で訳が分からなかった。だから心の中に?(はてな)マーク入れ(当時はけっこう両親について?と思うことが多かった)のようなスペースを作って、とりあえずそのスペースにいくつもの?をしまっておいたんじゃないかなぁと。

その後何年か過ぎて父親の思考回路がある程度理解できるようになってから、あの時いきなり引っぱたかれたのは、おそらく私が見知らぬ男性に(発情して)目を奪われたと彼が判断したんじゃないかと考えた。

しかし繰り返すけれど私が叩かれたのは、入り口から入ってきた人物(私自身は男なのか女なのかすら覚えていないが、多分男性が何人か入ってきたんだろう)を見たという理由だ。

今思うとたったそれだけで、娘が性的な発情をした!という判断までいった父親の方が変だと思う。しかし私の父親はその程度ですら許容できない人物*1だったのだ。

この一連の事件は、思春期の私に性的な出来事というよりも“外の世界(特に男性)”全てに関心を持ってはいけないという形のトラウマを植え付けたような気がしてならない。


私はもう一つのブログでエロ本の感想を書いているわけではないのだけれど、海外のロマンス小説は官能シーン抜きでは語れない。私にとってそれ(官能シーン込みで)ロマンス小説は非常に面白いエンターティメントでもあるのに、これまで官能シーンの感想を文字で詳しく書くことになぜか抵抗を感じていた。でも21世紀も18年目になって突如、潜在意識の中で父親に植え付けられたトラウマがふっきれたらしい。

しみじみと、時間は偉大な薬だと思う。あと「お父さん、平均寿命より少し早めに(享年69歳)死んでくれてありがとう。みんなあなたがいなくなって、のびのびしているよ」と言いたい。


 

ちなみに私は翌年の高校2年生の時から、家族旅行に参加しなくなった。

 

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*1:多分に妄想的な思考をするタイプ。しかも一度思い込むと訂正がきかないし、後で間違っていると分かっても決して謝れない性格。おそらく父親自身が性的な妄想に悩んでいたのではないかと思う

人は何に対してお金を払っているのかという話

 

残業100時間超、残業代ゼロ、過労死認定も困難にー裁量労働制 先行事例から知る本当の怖さ(志葉玲) - 個人 - Yahoo!ニュース

ぼんやりとしかわかっていなかったけれど、もっと法律の勉強をしていかなくてはいけないと、いい年をしてアホの子みたいに思った。知らないと搾取される時代なんだよね、今は。

2018/02/22 20:02

 つい先日こんなことをブクマした私は、法律の本ではないのだけれど専門分野の本で、これまで読んだことがない人が書いた本を読んでみようと考えた。仮想通貨も流行って(?)いることだし、とりあえず時流に乗って資産運用の入門書かなーと考えて(かなり適当なチョイスで)、「銀行員が家族に勧める資産運用術」という本を手に取ってみた。

銀行員が顧客には勧めないけど家族に勧める資産運用術

銀行員が顧客には勧めないけど家族に勧める資産運用術

 

本書では、元銀行員で個人向け営業に精通している著者が、“顧客に勧めるときのアドバイス”と“家族に勧めるときのアドバイス”を対比したり、資産運用に成功している人の習慣や失敗してしまう人の特徴を説明しながら、本当に効率的な資産運用に取り組む方法についてやさしく教えます。

誰もが自分の力で資産運用を行なわなければならなくなっているいま、本当に正しい知識を身につけたい人、必読の基本書です。

とアマゾンの内容紹介に 書いてあったので、「ふーん、そうなんだ」あっさり納得。大体資産運用についてをまるで分かっていない素人には、それ以外の感想なんて持ちようがない。著者は元銀行で資産アナリストをしていた人物で、銀行が勧めている資産運用についてけっこう本格的にディスっているのが印象的。

実のところ資産運用の方法自体は最後から3番目の5章から始まっており、それまでは資産運用をする上での心構えを説いている内容が続いている。著者の基本的な考え方としては、自分が理解できないものには投資しないとあり、私としても「まぁ、そうだよな」としかいいようがない。

その他にもいつも平常心でいるとか一喜一憂しないなど、本当にありがちなことが記されており、自分の頭で判断するということが資産運用には最も重要なのが理解できた。その他には資産運用をする人が、やたらに美味しい情報を知りたがることや(インサイダー取引になるのでそんな情報流すわけがない、または美味しい情報を他人に教えるバカはいない)最低限の知識も知らずに投資を他人任せにしてしまう人が多いことを知った(何百万、何千万単位のお金を、しかも自分の老後資金であっても他人任せにするなんて信じられないが、結構そういう人がいるらしい)。

私は行動経済学が好きでは何冊か読んでいるので、投資の仕組みそのものよりも投資を売る側(買わせる側)にかなりの興味を抱いてしまった。また買う側としても投資信託を買っているのだけではなく、一緒に安心も買いたい人が多いことに目を惹かれたことも事実。だから売っている人の人柄が良いという理由でその信託を選ぶ人も多いらしい。個人的には自分が何に対してお金を払っているのかをはっきりさせずに、よく大きな買い物をできるもんだと逆に感心してしまった。

実家に闇金の取立てが来たことがあるので一時期詐欺についての本を集中して読んでいたのだけれど、2018年はそうした自分の興味がある分野ばかりではなく、お金の動きなどの実態経済について少しでも詳しくなる必要があるなと思わせてくる内容だった。 


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 ここ1,2年くらいは現実逃避も兼ねて尋常ではないくらいにロマンス小説(純愛からエロ描写ががっつりあるのまで色とりどり)を読んで、ノンフィクションなんかのジャンルを全く読んでいないなぁと、少々反省。

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マクドナルドのカウンター席で、突然深淵をのぞいてしまった話

衝撃覚めやらぬ体験をしたので、書いておこうと思う。

 

 

数日前、小腹がすいたのでマックのカウンター席でコーヒーとチーズバーガーを食べていたら、同じ並びのひとつ空けて隣の席に座っていたおばあさん(多分70歳過ぎだと思う)が、携帯電話で何か話をしていたのが聞こえた。盗み聞くつもりはなかったのだけれど、席が近いからばっちり聞こえてくる内容が....。

保険を解約したい。その保険は誰かが家に忍び込んで免許証の番号を盗みて、勝手に契約した。

この辺から耳が話にひきつけられて興味をそそられてしまい、コーヒーを飲みながら話に聞き耳をたてていたのだが。

私は何度も誰かに殺されそうになった。道を歩いていたら、針のようなもので何回も刺された。家に誰かが忍び込んでいるのは分かっている(私が分かっているだけでも5回)。

どうやら契約をしていない(と思われる)保険が契約されていないことを確認しつつも解約しようと(?)、保険会社の窓口に電話しているらしい。

らしいというのは、私は絶対このおばあさんがヤバい人としか思えなかったので、そーっとその場を離れて、それ以上の情報が聞けなかったからだ(けっこうマジで怖かったので)。

そのおばあさんはせいぜい5分か10分くらいの間に上記の次々と衝撃的な内容をしゃべっていた。私は多分、生まれて初めてあれだけしっかり話すリアル電波の人を見たと思う。別に話があっちこっちに飛ぶと言うわけでもなく、ひたすら自分の命が狙われているのは分かっていると主張していた(ある意味一貫性のある主張ともいえるだろう)。伝える術は万に一つもないのだが、あの電話の向こうにいる窓口の人に「幸あれ」と割と本気で思ってしまった。でももしかしたら、保険会社には、ごくわずかかもしれないけれど電波の人からのああいった連絡がくるのかもしれない。

ところで道を歩いているだけで何人もの人に狙われることの反対としては、道を歩いていても誰一人あの人に注目しないということだ。なんとなくだけれど、あのおばあさんは一人暮らしで、あまり人と話す機会がないのかもしれないと思った。

愛の反対は憎悪ではなく無関心。歩きながらそんな言葉が頭に思い浮かんだが、結局知らない人のよく分からない話をファーストフードで漏れ聞いただけなのだがら、これ以上深く考えては行けないような気がして、家路を急いだ。

人が深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだから

 

 

 

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どうでもいいけど、ちょっとだけ悲しい話

もしかしたら後から書いたことを後悔するかもしれないが、書き捨て。

妹が数年後に70歳を過ぎている母親を捨てる気でいるのに気づいた。(正確に言えば捨てる気なんだろうなと分かっていたものの、どこかでなあなあにならないかという希望的な観測をしていた)

憎んでいるのならまだ何とかしようがあるのだが、妹は単に母親に対してほとんど関心がないのだ。こうなった理由を説明するとなかなかに楽しくないことばかりになるので、話をはしょらせてもらうが、これは別にここ数年で始まった話でもない。だから私としても「やっぱり、そうなるだろうなあ」としか思わなかった。

他人からすれば殺伐とした話題かもしれないが、実はこの会話は娘とした日常会話の一部でしかない。しかも私と妹の仲もこじれて一種の絶縁状態になっているので、実は今現在妹が何を考えているのかが分からなかったのだ。しかし妹は娘を可愛がってくれるので、娘からの情報で上記の推測をしてみた(少々悲しいことだが、多分当たってる)。ただしはっきり書いておくが、だからといって別に実家をふくむ家族仲が悪いわけではない。それどころかもしかしたら、ここ数年で一番上手くいっているかもしれないな。

 

他愛のない話 - ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか


 母は基本的には少女のような人で、70歳を過ぎているとは思えないほど美人だと思う。顔立ちだけなら私達姉妹より娘よりも、整っているだろう。だからどうというわけではないけれど。

私と母の間柄も、ここ数年では今が一番上手くいっているんじゃないかな。上手くいくコツは、彼女を母親ではなく「大きいお姉ちゃん」もしくは「とても親切な親戚のおばさん」だと想定すること。

最近では「いろいろと相談できるとっても親しいママ友」でもいいいなぁと思うようになったかな。でも気を抜いて母親だと思ってはいけない。それが全てを上手く進めるコツ。

月の裏側は見えないという話ー『ど根性ガエルの娘』の感想 - ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

 

月の裏側は見えないという話ー『ど根性ガエルの娘』の感想その2 - ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

 

 血は水よりも濃いかもしれないが、飲み下せない。

「建前を大事にしなさい。陳腐でも正しいことを建前と言うのだから」

ブログタイトルにした言葉は、「愛すべき娘たち」の第3話から抜き出してみた。

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前回のエントリーでは、「人はイメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たす「母親」という役割を混同してしまいがち」で、その混乱には「」の一文字が深く関係してくると書いた。しかし多くの人は愛という一文字を聞くだけでも、おそらくプラスにもマイナスにも大きくイメージが膨らんでしまうだろう。私の力だけでは「おかあさん」と「母親」と「愛」という三つ巴に対して、どうにも太刀打ちができない。

ここで私はよしながふみの「愛すべき娘たち」の莢子という女性に登場してもらうことにした。

莢子は美人で建築家という専門的な職を持ち、かつ性格も穏やかというパーフェクトな女性。周囲に彼女を嫌う人間はいない。彼女は、「そもそも人は皆良い所も悪い所も持っているんだもの」というが、建前上はもちろんその通りだろう。この言葉は、100%正しい。そしてだからこそ彼女は、誰かを特別に好きになることができないという結論に達してしまうのだ。しかも彼女は自分が心から惹かれた男性を選ぶことができないことを知り、今後の人生におけるある大きな決断をせざるを得なくなるのだ。この決断に関して、初めてこの話を読んだ時はけっこうな衝撃を受けた記憶がある。(莢子がした決断に関しては、ネタバレになってしまうので最後に)*1

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莢子は女友達に、「恋をするって、人を分け隔てるという事じゃない」と言う。私は莢子を通じてよしながふみが読者に投げかけたこの「恋」に関する定義に、強いショックを受けた。ためしに恋でググってみたら、異性に愛情を寄せること、その心。恋愛と表示された。しかしよしながふみは「愛すべき娘たち」の読者に対して、恋に関する全く違う方向から見る景色を提示してみせたのだ。

もちろん恋や恋愛は愛とイコールではないが、人を分け隔てるという角度で捉えるのなら、親が子供に注ぐ「愛」もまた、自分の子供と他人の子供を区別していることだと捉えることができるだろう。つまりイメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たす「母親」を混同してしまいがちになる理由として、実際の役割を果たす「母親」がこの分け隔てを比較的スムーズに(或いは無意識に)行ったり行わなかったりしているからではないのか?だからこそ「おかあさん」という言葉が持つイメージに対して、多くの人々は無意識に、人を分け隔てる(愛される特別な存在)という意味合いを持って「愛」という言葉を使っているのではないだろうか?だからこそ「愛」という言葉を聞くと、プラスであれマイナスであれ何かしらイメージが大きく膨らんでしまうのでは?と推測してみた。

タイトルにある「建前を大事にしなさい。陳腐でも正しいことを建前と言うのだから」という一文は、莢子の祖父が生前彼女に言っていた言葉として書かれている。彼女は祖父を非常に敬愛し、その言葉を大切にして生きてきた。しかし自分の行動に責任を持つことを良しとした祖父の教えに従った結果、彼女は誰か一人だけを選んで愛しわけ隔て)共に生きることができない自分に気がつくのだ。

ここまではよしながふみの手助けを借りてなんとか進めてみたものの、これだけではまだまとまりがない印象が大きいと言えるだろう。しかし私の推測ではこの辺りが精一杯としか言いようがなくなってしまったので、とにかく締めようと思う。

 

 

*1:結局莢子は俗世を捨てて修道院に入り、カトリックのシスターとなる

お母さんの愛は弁当箱の形をしているー続・「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

前回のエントリーを書きながら、さらに深く「おかあさん」とは一体誰なのか?と考察してみた。

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「おかあさん」という言葉を聞くと、何となく崇高で素晴らしい存在を思い浮かべたり、もしくは全く逆の飲み込まれるようなイメージを抱いたりと色々あるかと思われる。または無償の愛みたいなことを思い浮かべる人もいるかも知れない。しかし私自身「おかあさん」と聞いて思い浮かぶことは、今現在においては実用的なことだ。未成年の子供を持つ母親は子供の世話をすることが仕事なので、実際には感傷的なイメージの入り込む余地があまり多くない場合が多いのだ。

その最たるものが、毎日の弁当作りといえるだろう。私の娘は高校生なので既に身体的な世話がメインではない、しかし学校ではもう給食を提供してくれなくなっている。だから私は料理が得意なわけでもないのに、毎日弁当を作るのだ。私の娘にとってはふわーっとした思いやりよりも、(美味しいかどうかは知らないが)毎日きちんと弁当を持たせてくれるお昼代を潤沢に渡してくれるお母さんが、「良いおかあさん」といえるからだ。

 

ボリューム満点!  アンパンマンのお弁当セット

ボリューム満点! アンパンマンのお弁当セット

 

 

そうなると「おかあさん」という存在が正しく在るためには、「母親としての役割を果たすこと」が必要になってくるといえるだろう。つまり論理として進めるのならば「おかあさん」は別に現実に存在している母親でなくても、その役割を果たしてくれる人物なら誰でもかまわないという可能性が出てきてしまうのだ。前回私が問いかけた、「おかあさん」とは一体誰なのか?という問いの答えが、「おかあさん」の役割を果たしている人物となってしまうことに、ここにきて気がついたということになる。

もちろんこれは少々強引な理論であることも承知している。しかし人はつい、イメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たすことを混同してしまいがちなのだ。そしてここに来て厄介な代物として引っかかり、噛み下せないのが「」の一文字となってくるだろう。

」の意味合いとしては、ググってみると「かわいがる。いとしく思う。いつくしむ。いたわる」などが表示されてくる。しかしこれでもまだ漠然としているだろう。そもそも愛という文字を聞いて何を思い浮かべるかに関しては、千差万別としかいいようがないからだ。ただ一つ自分自身に関して断言できることとして、私の愛を示す具体的な形は弁当箱なのだ。正直自分の娘のためだからこそ、毎日毎日弁当を作り続けているとしか言いようがない。しかし私には他の人の愛がどういう形をしているのかに関して“人それぞれ”という逃げの一手を打つより方法が見つからないのだ。

こうしてとりとめもなく書いてはみたものの、ここまできたら話が全くまとまらなくなってしまった。そこで解決策として、「愛すべき娘たち」を書いたよしながふみの力を借りてみようかと思う。でもとりあえず力尽きてしまったので、この件に関しては次回に続く(と思う、多分)。

 

 

 

「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

今だに炎上中なのかは定かではないが、ちょっと意見を表明したいと思った件ですね。

母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える(中野円佳) - 個人 - Yahoo!ニュース

子育て時代は、どう言い繕っても自己犠牲が必要になる。それを上手く飲み込める人も飲み込めない人もいるから、モヤるんだと思う。「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃないからなぁ。

2018/02/05 21:09 

この私自身のブクマに書いてある“「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃない”という言葉から連想する作品として、よしながふみの「愛すべき娘たち」というマンガを挙げたい。

 

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 よしながふみといえばどうしてもテレビ化や映画化されている「大奥」の方が有名だけれども、実は彼女は素晴らしい短編の書き手でもあるのだ。この「愛すべき娘たち」という短編集に関しては、密かに彼女の短編の最高傑作ではないかと考えている。

よしながふみという人は、もともとジェンダーの問題に対して鋭い感覚を持って作品を描き続けているマンガ家だ。「大奥」で彼女は、徳川幕府の歴代将軍たちを男女逆転させた上で上手く史実を交えながら、違和感を感じさせずに世界を構築し、読者を引っ張っていくという離れ技を繰り出している。また彼女が「大奥」とは真逆のテイストで現在も連載している「きのう、何食べた?」は、平たく書いてしまえば「中年ゲイカップルの日常」を「これぜんぜんフツーのことですから」といわんばかりにシレっと描いてたりするのだ。

つまり彼女は自分が感じ取ったジェンダーに関しての違和感を、口あたりを良くしないで違和感という雑味のまま的確に調理する(表現できる)能力を持っているといえるだろう。初期の段階でそれを見事に証明してみせたのが、この「愛すべき娘たち」という作品だ。

このマンガでは主人公を限定しない形式をとって、ジェンダーに関連する5つの話がバトンを渡すように展開していく。全ての話の中でままならない現実と格闘する“娘たち”が描かれているのだが(2話目の主人公は男性、よしながふみはフラットな視点を持っているので)、自分と同じように苦しんでいる主人公たちに次第に共感したり反発したりと感情をつき動かされるであろう読者に向って、よしながふみは最終話で種明かしともいえるバトンを渡してくる。読者を含んだ大勢の“娘たち”の中に、母親が入っていることを明らかにしてみせるのだ。

「あたしおかあさんだから」の歌が炎上してしまった原因として、「あたしおかあさんだから」の歌の中で歌われる「おかあさん」とは一体誰なのか?という視点が、すっぽりと抜け落ちていることが挙げられる。炎上を支持した人の中には、自分が(もしくは知り合いが)「おかあさん」という生き物(もしくは生き方)であるという硬直した考え方の中に“閉じ込められる”ように感じた人が多かったのではないだろうか?そうした作り手側の限定された視点に対して、反射的に「NO!」という意見表明をした人が多かったことが炎上に繋がったのではと推測してみる。

「愛すべき娘たち」の最終話で、よしながふみは母親という存在を、「母というものは、要するに1人の不完全な女の事なんだ」と結論づけている。このマンガは2002年から2003年にかけて連載されていたのだが、10年以上たった2018年になっても「あたしおかあさんだから」を作った作り手側には、母親というものが1人の不完全な女、自分たちと同じただの人間だという視点が欠けていたのではないだろうか?

作り手側の頭の中にある「おかあさん」とは、もしかしたらどこにも存在していない想像の中だけの「おかあさん」なのかもしれない。