ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

お母さんの愛は弁当箱の形をしているー続・「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

前回のエントリーを書きながら、さらに深く「おかあさん」とは一体誰なのか?と考察してみた。

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「おかあさん」という言葉を聞くと、何となく崇高で素晴らしい存在を思い浮かべたり、もしくは全く逆の飲み込まれるようなイメージを抱いたりと色々あるかと思われる。または無償の愛みたいなことを思い浮かべる人もいるかも知れない。しかし私自身「おかあさん」と聞いて思い浮かぶことは、今現在においては実用的なことだ。未成年の子供を持つ母親は子供の世話をすることが仕事なので、実際には感傷的なイメージの入り込む余地があまり多くない場合が多いのだ。

その最たるものが、毎日の弁当作りといえるだろう。私の娘は高校生なので既に身体的な世話がメインではない、しかし学校ではもう給食を提供してくれなくなっている。だから私は料理が得意なわけでもないのに、毎日弁当を作るのだ。私の娘にとってはふわーっとした思いやりよりも、(美味しいかどうかは知らないが)毎日きちんと弁当を持たせてくれるお昼代を潤沢に渡してくれるお母さんが、「良いおかあさん」といえるからだ。

 

ボリューム満点!  アンパンマンのお弁当セット

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そうなると「おかあさん」という存在が正しく在るためには、「母親としての役割を果たすこと」が必要になってくるといえるだろう。つまり論理として進めるのならば「おかあさん」は別に現実に存在している母親でなくても、その役割を果たしてくれる人物なら誰でもかまわないという可能性が出てきてしまうのだ。前回私が問いかけた、「おかあさん」とは一体誰なのか?という問いの答えが、「おかあさん」の役割を果たしている人物となってしまうことに、ここにきて気がついたということになる。

もちろんこれは少々強引な理論であることも承知している。しかし人はつい、イメージとしての「おかあさん」と実際の役割を果たすことを混同してしまいがちなのだ。そしてここに来て厄介な代物として引っかかり、噛み下せないのが「」の一文字となってくるだろう。

」の意味合いとしては、ググってみると「かわいがる。いとしく思う。いつくしむ。いたわる」などが表示されてくる。しかしこれでもまだ漠然としているだろう。そもそも愛という文字を聞いて何を思い浮かべるかに関しては、千差万別としかいいようがないからだ。ただ一つ自分自身に関して断言できることとして、私の愛を示す具体的な形は弁当箱なのだ。正直自分の娘のためだからこそ、毎日毎日弁当を作り続けているとしか言いようがない。しかし私には他の人の愛がどういう形をしているのかに関して“人それぞれ”という逃げの一手を打つより方法が見つからないのだ。

こうしてとりとめもなく書いてはみたものの、ここまできたら話が全くまとまらなくなってしまった。そこで解決策として、「愛すべき娘たち」を書いたよしながふみの力を借りてみようかと思う。でもとりあえず力尽きてしまったので、この件に関しては次回に続く(と思う、多分)。

 

 

 

「あたしおかあさんだから」の「おかあさん」とは一体誰なのか?

今だに炎上中なのかは定かではないが、ちょっと意見を表明したいと思った件ですね。

母の自己犠牲を描くとなぜ炎上するのか のぶみ作詞「あたしおかあさんだから」 を認知的不協和から考える(中野円佳) - 個人 - Yahoo!ニュース

子育て時代は、どう言い繕っても自己犠牲が必要になる。それを上手く飲み込める人も飲み込めない人もいるから、モヤるんだと思う。「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃないからなぁ。

2018/02/05 21:09 

この私自身のブクマに書いてある“「お母さん」は生まれた時からお母さんという生き物ってわけじゃない”という言葉から連想する作品として、よしながふみの「愛すべき娘たち」というマンガを挙げたい。

 

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

 

 よしながふみといえばどうしてもテレビ化や映画化されている「大奥」の方が有名だけれども、実は彼女は素晴らしい短編の書き手でもあるのだ。この「愛すべき娘たち」という短編集に関しては、密かに彼女の短編の最高傑作ではないかと考えている。

よしながふみという人は、もともとジェンダーの問題に対して鋭い感覚を持って作品を描き続けているマンガ家だ。「大奥」で彼女は、徳川幕府の歴代将軍たちを男女逆転させた上で上手く史実を交えながら、違和感を感じさせずに世界を構築し、読者を引っ張っていくという離れ技を繰り出している。また彼女が「大奥」とは真逆のテイストで現在も連載している「きのう、何食べた?」は、平たく書いてしまえば「中年ゲイカップルの日常」を「これぜんぜんフツーのことですから」といわんばかりにシレっと描いてたりするのだ。

つまり彼女は自分が感じ取ったジェンダーに関しての違和感を、口あたりを良くしないで違和感という雑味のまま的確に調理する(表現できる)能力を持っているといえるだろう。初期の段階でそれを見事に証明してみせたのが、この「愛すべき娘たち」という作品だ。

このマンガでは主人公を限定しない形式をとって、ジェンダーに関連する5つの話がバトンを渡すように展開していく。全ての話の中でままならない現実と格闘する“娘たち”が描かれているのだが(2話目の主人公は男性、よしながふみはフラットな視点を持っているので)、自分と同じように苦しんでいる主人公たちに次第に共感したり反発したりと感情をつき動かされるであろう読者に向って、よしながふみは最終話で種明かしともいえるバトンを渡してくる。読者を含んだ大勢の“娘たち”の中に、母親が入っていることを明らかにしてみせるのだ。

「あたしおかあさんだから」の歌が炎上してしまった原因として、「あたしおかあさんだから」の歌の中で歌われる「おかあさん」とは一体誰なのか?という視点が、すっぽりと抜け落ちていることが挙げられる。炎上を支持した人の中には、自分が(もしくは知り合いが)「おかあさん」という生き物(もしくは生き方)であるという硬直した考え方の中に“閉じ込められる”ように感じた人が多かったのではないだろうか?そうした作り手側の限定された視点に対して、反射的に「NO!」という意見表明をした人が多かったことが炎上に繋がったのではと推測してみる。

「愛すべき娘たち」の最終話で、よしながふみは母親という存在を、「母というものは、要するに1人の不完全な女の事なんだ」と結論づけている。このマンガは2002年から2003年にかけて連載されていたのだが、10年以上たった2018年になっても「あたしおかあさんだから」を作った作り手側には、母親というものが1人の不完全な女、自分たちと同じただの人間だという視点が欠けていたのではないだろうか?

作り手側の頭の中にある「おかあさん」とは、もしかしたらどこにも存在していない想像の中だけの「おかあさん」なのかもしれない。

 

 

「たとえ世界が終わっても」人生は続く、だらだらと

日本やアメリカ、イギリスは1980年代以降、新自由主義ネオリベラリズム*1)の考え方を経済政策に取り入れるようになりましたが、その結果起こったのが格差社会です。こういった状況を踏まえて書かれた本が、橋本治著の「たとえ世界が終わっても」なのです。

 

内容紹介

『“イギリスのEU離脱決定”と“ドナルド・トランプのアメリカ大統領当選”を見て、成長と拡大を求め続ける資本主義経済の終焉を確信したという橋本治。資本主義の終わりとは何か? その後を我々はどう生きるべきなのか? 「昭和の終わりと同時に日本経済は飽和した」「貿易なんて西洋人の陰謀に過ぎない」「国民はクビにできないので、企業経営感覚の政治家は容易に差別主義者になる」など、政治や経済といった枠を超えて次世代に語りかけるメッセージ』

 

 この本は、世界が大きく変わりつつある今、「その先」ってどうすればいいの?という問いに、橋本さんが優しく答えてくれている本です。

例えば高校生の娘と話す時や70代の母親と話す時に、自分の立ち位置というか、自分がどう考えているのかを、ふと自問自答してしまうことがあります。そんな時には、自分が昭和を引きずった考え方(昭和と平成の中途半端なミックスとでも言うのでしょうか?)というか、どこかで平成の持つスピード感や価値観になじみ切れない部分がベースになっているなぁという自覚があるのです。しかし最近は、それでも(平成に乗り遅れても)いいんじゃない、と思っている自分もいます。

この本の中で橋本さんは、「正義とは損得で物事を判断しない」ことだと書いているのですが、私はこの“正義”の部分に“大人”という言葉を当てはめたいなと思いました。「人とは損得で物事を判断しない」、つまり損を受け入れていくのが大人ではないかと。でもこうした考え方は、新自由主義どころか現代社会にすらそぐわないですね。

もちろん損得は非常に重要ですし、私自身、損得を無視しようというわけではありません。しかし物事の判断ベースの基準を損得とするならば、損をしないためには自他共に永遠に成長し続けるということが正しくなってしまいます。拡大し、成長し続けるものを肯定するということは、思い通りに育ってくれない子供や、自分自身が年を取って弱っていくことや、親が次第に老いていくことなども受け入れることが難しくなってしまうでしょう。(橋本さんの本の壮大な内容と比べると大分せせこましい考えですが)

 

平成の次の元号が何であれ、おそらく私はこれからも時代に遅れていくんじゃないかと思います。これまでそういう自分がなんとなく後ろめたかったのですが、橋本さんの本を読むと、「それでも全然いいんじゃない」と言ってもらったような気がしました。

 

 

 

yuriyuri.hatenadiary.com

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*1:国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重視を特徴とする経済思想

子供は親の言うことなんかほぼ聞かないという話

この匿名ダイアリーを読んで、考え込んでしまった。

 

日本の未来が暗すぎて日本脱出した方がいいのでは?

「ここではないどこか」なんて、どこに行ってもないと思う。「どこか」に自分と子供のための場所を用意してくれる「誰か」なんていないよ。それから増田さんと子供は「別の人格」です。問題を分けて考えましょう。

2018/01/31 16:46

 

 私の意見としては、まぁこれに尽きる。子供が何歳かによっても違ってくるけれど、「ここではないどこか」なんて地上のどこにでもあると言えばあるし、ないと言えばない。要は自分の漠然とした自分の不安感を、子供に投影しているのではないかと疑ってしまうよ。もちろん子供への愛情がベースになっているのだろうけれど。

この匿名ダイアリーの増田さんだけではなく、高校生の娘の友達の話を聞いても親と子供がぴったり引っ付いている印象がある。私自身は娘について理解できない部分があることは当たり前だと思っているので、娘の話す内容が分かり難い時には「今の話、何を言っているのか全く理解できない。私は○○の友達じゃないんだからさ。私に分かるように説明して。」とはっきり言う。もちろん彼女が話したくないと判断したことについては、突っ込んで聞きだしたりもしない。(だから未だに娘が定期的にツイッターに上げているマンガを見せてもらっていないし、彼女の友達について知らないことも多々ある)でも娘の友達の親は、聞いていると子供をコントロールしたがっている気がしてならない。高校生になるとそういうやり方をめちゃめちゃイヤがるし、かえって反発して肝心なことを隠すようになるだけだと思う。自分自身が高校生だったころを思い出せば、分かると思うんだけれど....。

 

もし増田さんが日本の未来に不安があるならば(私自身ないとは決して言わないので)、子供じゃなくて、増田さんがどうしたいのかをはっきりさせてから、その意見を子供の年齢に合わせて折に触れて2人で話し合えばいいと思う。そもそも親の人生と子供の人生は全く別ものだから、子供が自分と同じ意見を持っているわけがない。いくら説得しても外国に行きたくない、日本にいたいと子供が言い張ることだって充分考えられると思うよ。

 

 

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音楽よもやま

久しぶりに小室哲也率いるglobe(というかもう既に率いなくなって久しい)「FACES PLACES」をふと聞いてみたら、2,3日リピートしてしまった。

小室哲也の曲を聴いていると、もう20年以上前に私自身がボーカルを習っていたころよくカラオケでglobeを歌ったなぁと感慨深い気持ちになる。特にこの曲を聞くと、あのころまだうんざりするほど若かった自分を思いだしたり出さなかったりする。

globeの曲に関してはどれも息継ぎがたいへんで、一曲フルで歌うと疲れる曲ばかりだったなぁと。でも歌いきると、頭に脳内麻薬が出るような感覚があるのだ。


globe / FACES PLACES

あのころは本気で「音楽がないと生きていけない!」なんて思っていたのに、それから何年かして子供が産まれると、当然それどころではなくなりましたね。正確には聞く音楽が「アンパンマンマーチ」やしまじろうの歌やあとプリキュアといったように、完全に180度チェンジしました。しまじろうのトイレトレーニングの歌は、なぜかいまだにばっちり歌えますね。

 

しまじろうのわお! みんな大好きうた・ダンスコレクション! ! [DVD]

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 私がそんな感じでうだうだとしている間に時代はどんどん進んでいき、オバサンになった今では、何を聞いたらいいのかすらも分からなくなってしまいました。

そんな感じではありますが、ここ数年はゴッドタンのマジ歌選手権を欠かせず見ていますね。その中の超個人的ヒットソングは、バカリズムの歌かなぁ。次点がハライチの岩井です。基本はずれがないし、もしかしたらバカリズムのネタより好きかもしれない。


New 【ゴッドタン:マジ歌】バカリズムのカルテットパロディソングwww

 

この「恋のパステルカラー」なんて、元ネタのさわやかさが1ミクロンも残っていないのが失礼というか最高!


【マジ歌】 バカリズム「恋のパステルカラー」 ゴッドタン新春SP 芸人マジ歌選手権

2018

これが元ネタらしい。ここまで確信犯だと、もう笑うしかない。


江本祐介「ライトブルー」MV

 

それからこの大山るあんちゃん(14歳)の声がけっこう好きで、時々聞いてるかなぁ。この子はカバーソング(特に英語が素晴らしい!)の他に自分でも作詞作曲していて、この曲は自分自身の声の特徴を良く引きたてていいる気がする。お顔もたいへん可愛らしい子で、ダンスも上手いです(2分30秒過ぎるとキレキレで踊っています)。ホント、最近の10代はすごい。


RUANN(大山琉杏)- The beautiful girl is about u Music Video

 

藤原さくら福山雅治の月9でデビューした子だけど、るあんちゃんと同じギター女子ですね。私は鍵盤よりも、弦の音が好きなんですよ。

この2人にはもう一つ共通点があって、それは声が甘くないということ。るあんちゃんはお顔に似あわないハスキー気味の芯がある太い声で、藤原さくらはスモーキーというか、いわゆる女の子っぽい可愛らしい澄んだ声とは対極の落ち着きはらった声ですね。実写化された「3月のライオン」で、賛否両論あったようですがスピッツの「春の歌」をカバーしています。それもよかったけれど、私はこちらの「500マイル」の方が彼女の声が非常に活かされているんじゃないかと思いますね。


藤原さくら「500マイル」

 

最後にゲスじゃないほうの川谷絵音で。何がいいかって、「悲しくなる前に」というタイトルが秀逸!とにかく感心しました。「悲しみのナントカ」「気持ちがナントカ」ではなく、悲しくなる前ってさらりと提示したことには、ハッとさせられましたね。この感性は、ポエム調というより本物の詩人のようだと思いました。この人モテるだろうな~と納得。


indigo la End「悲しくなる前に」

時の過ぎ行くままに、この身をまかせていいのか悪いのか問題について

匿名ダイアリーで、35歳を過ぎて結婚出来ない人の大半は訳アリ物件

に対して

 40を数年ほど過ぎた独身の私の妹は、16歳の我が娘に「○○ちゃんは嫌いじゃないけど2人っきりで話すと面倒くさい。本人はとても言えないよ」という評価を受けている。最近の妹の話題は、昔の恋愛話だそうだ。

 とブクマした。この35歳を過ぎて~という意見に対して否定と肯定両方の色々な意見が述べられ納得のいくものもいかないもののあったけれど、私個人としては「訳アリ」というよりも「面倒くさくなる」という確かな実感がある。

親子して妹をディスっているようにしか思えないかもしれないが、(実際そうなんだけれど)妹に関しては30代後半くらいからもともと本人が持ち合わせているこだわりのようなものが、ジワジワ強くなってきたのを感じていた。

そもそも妹は姉である私よりも頭が良くてオシャレで、英語が話せたり知識が豊富だったりとスペックとしてはかなり優秀なはずなのに、(というかそれだからこそ)結婚とか恋愛にだけではなく、全てにゆずれない部分が大きいタイプなのだ。そんな妹に家族全員で「あの子には困ったもんだね」などといい続けて、既に20年以上たってしまった。

その間に娘が産まれて高校生になって、妹に対して「○○ちゃん(娘は妹をとちゃんづけで呼ぶ)って本当に頭いいし、いろいろ知ってるけれど、言い方が押し付けがましいんだよねー」と言うようになっていた。それを聞いて私は「あぁ、着実に時間が過ぎていたんだ」という当たり前のことをひしひしと感じた。私達にとっての妹はどこか「家族の最年少」というイメージがあるのだけれど、16歳から見たら、ただのおばさんなんだよね。

現実に結婚適齢期があるのかないのかよく分からないが、「どんなに人間でも、確実に年を取る」ということを、ここ数年で実感している。年を取るからいいとか悪いとかではなく、本人が若くなくなるということをしっかり自覚するのは難しいのかもしれない。娘の妹に対するキビしめ言葉を聞きながら、私は若いころキラキラしていた妹の言動を思い出していた。

 

 

 

「高慢と偏見」に手が届かない私の読書遍歴 その2

ひとくちにロマンス小説とくくっても、実際はかなり幅があるのは確かだ。小説家の中には、ペンネームを分けて傾向を変える形で書き分けをしているやり方をする人がいて、その中でも特に愛読しているのがジェイン・アン・クレンツ、またの名をアマンダ・クイックだ。ジェインの時に書く小説は現代モノが多い。アマンダの時に書く小説は時代モノのヒストリカル・ロマンスが多いと思う。

彼女の場合、作品によってはハーレクインというよりもミステリー小説だったり恋愛よりの普通の小説だったりという印象が強いかな。ハンサムな大富豪や社長が出てこないし、基本的に突っ込みどころのある展開もない気がする。ヒロインもハーレクイン的な「超絶美人」ではなく、綺麗だけれどけっこう穏やかに話し合いながら恋愛関係を積み上げるタイプがほとんどだ。

そもそも私があまり日本人の書く恋愛小説を読まないのは、出てくる人物が恋愛脳なのが苦手だからだ。ハーレクインを読んでいるのに恋愛脳な登場人物が苦手なのはおかしいのだが、私にとってハーレクインは恋愛というより外国人が繰り広げる華麗なエンターテイメントに近い。日常生活にいちいち細やかに恋愛を絡ませた展開のある日本の小説は、読んでいて面倒くさくなってしまう。

もちろん「日本の小説にも良い本があるよ」という意見は多いと思うけれど、なんとなく日本の小説は「共感」に重きがおかれているような気がしてしまう。でも私には日常の少し先にある読書体験よりも、知らないところで一生会うこともないであろう人物がいろいろぶっ飛んで何かしている方が、読んでいてがぜん楽しいのだ。

私は共感が苦手な面がある。例えば昔母親が図書館でよく借りていた西村京太郎のトラベルミステリーを、最初の数十ページ読んだらすぐクライマックスを読んで犯人をはっきりさせてから真ん中を読むという変な読み方をしていた(もしくは読まない)。最後を読めば犯人が分かるし色々省略できるから、その方が落ち着くと考えていたのだ(とにかく大体の話が分かればいいので、細かい部分は気にならない)。

その悪癖は、ロマンス小説を読むようになってからようやく修正することができた。つまり40歳を過ぎてからやっと、話の筋というものを楽しめるようになったのだ。そもそもロマンス小説は基本の展開が一緒だから、途中を楽しめるようにならないと全部が同じ話になってしまう。

ベストセラーとか話題になった小説なんかは、基本的に「どこかいいところがあるんだろうな」ということにして終わらせる。又吉の「火花」は、雑誌に掲載されていたものを途中まで読んだけれど、なんか飽きちゃって全部は読んでいない。又吉が面白くないのではなく、私には彼のエッセイか俳句の本の方が俄然面白いのだ。だから「火花」なのか「花火」なのかを、いつも間違えそうになる。

「読書が趣味」と言えるようなきちんとした読み方をしていないので、これまで自分がどんな本を読んでいるのかを知られたくなかったのだけれど、新年を迎えてふと、「格好つけても仕方ないかな」と思った。ブログで「オススメの○○冊!」なんて書ける人が羨ましいが、これからも私は全く人には薦めるつもりのない本ばかりを読んでいこうと思っている。

 

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