ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

子供は親の言うことなんかほぼ聞かないという話

この匿名ダイアリーを読んで、考え込んでしまった。

 

日本の未来が暗すぎて日本脱出した方がいいのでは?

「ここではないどこか」なんて、どこに行ってもないと思う。「どこか」に自分と子供のための場所を用意してくれる「誰か」なんていないよ。それから増田さんと子供は「別の人格」です。問題を分けて考えましょう。

2018/01/31 16:46

 

 私の意見としては、まぁこれに尽きる。子供が何歳かによっても違ってくるけれど、「ここではないどこか」なんて地上のどこにでもあると言えばあるし、ないと言えばない。要は自分の漠然とした自分の不安感を、子供に投影しているのではないかと疑ってしまうよ。もちろん子供への愛情がベースになっているのだろうけれど。

この匿名ダイアリーの増田さんだけではなく、高校生の娘の友達の話を聞いても親と子供がぴったり引っ付いている印象がある。私自身は娘について理解できない部分があることは当たり前だと思っているので、娘の話す内容が分かり難い時には「今の話、何を言っているのか全く理解できない。私は○○の友達じゃないんだからさ。私に分かるように説明して。」とはっきり言う。もちろん彼女が話したくないと判断したことについては、突っ込んで聞きだしたりもしない。(だから未だに娘が定期的にツイッターに上げているマンガを見せてもらっていないし、彼女の友達について知らないことも多々ある)でも娘の友達の親は、聞いていると子供をコントロールしたがっている気がしてならない。高校生になるとそういうやり方をめちゃめちゃイヤがるし、かえって反発して肝心なことを隠すようになるだけだと思う。自分自身が高校生だったころを思い出せば、分かると思うんだけれど....。

 

もし増田さんが日本の未来に不安があるならば(私自身ないとは決して言わないので)、子供じゃなくて、増田さんがどうしたいのかをはっきりさせてから、その意見を子供の年齢に合わせて折に触れて2人で話し合えばいいと思う。そもそも親の人生と子供の人生は全く別ものだから、子供が自分と同じ意見を持っているわけがない。いくら説得しても外国に行きたくない、日本にいたいと子供が言い張ることだって充分考えられると思うよ。

 

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 

 

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音楽よもやま

久しぶりに小室哲也率いるglobe(というかもう既に率いなくなって久しい)「FACES PLACES」をふと聞いてみたら、2,3日リピートしてしまった。

小室哲也の曲を聴いていると、もう20年以上前に私自身がボーカルを習っていたころよくカラオケでglobeを歌ったなぁと感慨深い気持ちになる。特にこの曲を聞くと、あのころまだうんざりするほど若かった自分を思いだしたり出さなかったりする。

globeの曲に関してはどれも息継ぎがたいへんで、一曲フルで歌うと疲れる曲ばかりだったなぁと。でも歌いきると、頭に脳内麻薬が出るような感覚があるのだ。


globe / FACES PLACES

あのころは本気で「音楽がないと生きていけない!」なんて思っていたのに、それから何年かして子供が産まれると、当然それどころではなくなりましたね。正確には聞く音楽が「アンパンマンマーチ」やしまじろうの歌やあとプリキュアといったように、完全に180度チェンジしました。しまじろうのトイレトレーニングの歌は、なぜかいまだにばっちり歌えますね。

 

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 私がそんな感じでうだうだとしている間に時代はどんどん進んでいき、オバサンになった今では、何を聞いたらいいのかすらも分からなくなってしまいました。

そんな感じではありますが、ここ数年はゴッドタンのマジ歌選手権を欠かせず見ていますね。その中の超個人的ヒットソングは、バカリズムの歌かなぁ。次点がハライチの岩井です。基本はずれがないし、もしかしたらバカリズムのネタより好きかもしれない。


New 【ゴッドタン:マジ歌】バカリズムのカルテットパロディソングwww

 

この「恋のパステルカラー」なんて、元ネタのさわやかさが1ミクロンも残っていないのが失礼というか最高!


【マジ歌】 バカリズム「恋のパステルカラー」 ゴッドタン新春SP 芸人マジ歌選手権

2018

これが元ネタらしい。ここまで確信犯だと、もう笑うしかない。


江本祐介「ライトブルー」MV

 

それからこの大山るあんちゃん(14歳)の声がけっこう好きで、時々聞いてるかなぁ。この子はカバーソング(特に英語が素晴らしい!)の他に自分でも作詞作曲していて、この曲は自分自身の声の特徴を良く引きたてていいる気がする。お顔もたいへん可愛らしい子で、ダンスも上手いです(2分30秒過ぎるとキレキレで踊っています)。ホント、最近の10代はすごい。


RUANN(大山琉杏)- The beautiful girl is about u Music Video

 

藤原さくら福山雅治の月9でデビューした子だけど、るあんちゃんと同じギター女子ですね。私は鍵盤よりも、弦の音が好きなんですよ。

この2人にはもう一つ共通点があって、それは声が甘くないということ。るあんちゃんはお顔に似あわないハスキー気味の芯がある太い声で、藤原さくらはスモーキーというか、いわゆる女の子っぽい可愛らしい澄んだ声とは対極の落ち着きはらった声ですね。実写化された「3月のライオン」で、賛否両論あったようですがスピッツの「春の歌」をカバーしています。それもよかったけれど、私はこちらの「500マイル」の方が彼女の声が非常に活かされているんじゃないかと思いますね。


藤原さくら「500マイル」

 

最後にゲスじゃないほうの川谷絵音で。何がいいかって、「悲しくなる前に」というタイトルが秀逸!とにかく感心しました。「悲しみのナントカ」「気持ちがナントカ」ではなく、悲しくなる前ってさらりと提示したことには、ハッとさせられましたね。この感性は、ポエム調というより本物の詩人のようだと思いました。この人モテるだろうな~と納得。


indigo la End「悲しくなる前に」

時の過ぎ行くままに、この身をまかせていいのか悪いのか問題について

匿名ダイアリーで、35歳を過ぎて結婚出来ない人の大半は訳アリ物件

に対して

 40を数年ほど過ぎた独身の私の妹は、16歳の我が娘に「○○ちゃんは嫌いじゃないけど2人っきりで話すと面倒くさい。本人はとても言えないよ」という評価を受けている。最近の妹の話題は、昔の恋愛話だそうだ。

 とブクマした。この35歳を過ぎて~という意見に対して否定と肯定両方の色々な意見が述べられ納得のいくものもいかないもののあったけれど、私個人としては「訳アリ」というよりも「面倒くさくなる」という確かな実感がある。

親子して妹をディスっているようにしか思えないかもしれないが、(実際そうなんだけれど)妹に関しては30代後半くらいからもともと本人が持ち合わせているこだわりのようなものが、ジワジワ強くなってきたのを感じていた。

そもそも妹は姉である私よりも頭が良くてオシャレで、英語が話せたり知識が豊富だったりとスペックとしてはかなり優秀なはずなのに、(というかそれだからこそ)結婚とか恋愛にだけではなく、全てにゆずれない部分が大きいタイプなのだ。そんな妹に家族全員で「あの子には困ったもんだね」などといい続けて、既に20年以上たってしまった。

その間に娘が産まれて高校生になって、妹に対して「○○ちゃん(娘は妹をとちゃんづけで呼ぶ)って本当に頭いいし、いろいろ知ってるけれど、言い方が押し付けがましいんだよねー」と言うようになっていた。それを聞いて私は「あぁ、着実に時間が過ぎていたんだ」という当たり前のことをひしひしと感じた。私達にとっての妹はどこか「家族の最年少」というイメージがあるのだけれど、16歳から見たら、ただのおばさんなんだよね。

現実に結婚適齢期があるのかないのかよく分からないが、「どんなに人間でも、確実に年を取る」ということを、ここ数年で実感している。年を取るからいいとか悪いとかではなく、本人が若くなくなるということをしっかり自覚するのは難しいのかもしれない。娘の妹に対するキビしめ言葉を聞きながら、私は若いころキラキラしていた妹の言動を思い出していた。

 

 

 

「高慢と偏見」に手が届かない私の読書遍歴 その2

ひとくちにロマンス小説とくくっても、実際はかなり幅があるのは確かだ。小説家の中には、ペンネームを分けて傾向を変える形で書き分けをしているやり方をする人がいて、その中でも特に愛読しているのがジェイン・アン・クレンツ、またの名をアマンダ・クイックだ。ジェインの時に書く小説は現代モノが多い。アマンダの時に書く小説は時代モノのヒストリカル・ロマンスが多いと思う。

彼女の場合、作品によってはハーレクインというよりもミステリー小説だったり恋愛よりの普通の小説だったりという印象が強いかな。ハンサムな大富豪や社長が出てこないし、基本的に突っ込みどころのある展開もない気がする。ヒロインもハーレクイン的な「超絶美人」ではなく、綺麗だけれどけっこう穏やかに話し合いながら恋愛関係を積み上げるタイプがほとんどだ。

そもそも私があまり日本人の書く恋愛小説を読まないのは、出てくる人物が恋愛脳なのが苦手だからだ。ハーレクインを読んでいるのに恋愛脳な登場人物が苦手なのはおかしいのだが、私にとってハーレクインは恋愛というより外国人が繰り広げる華麗なエンターテイメントに近い。日常生活にいちいち細やかに恋愛を絡ませた展開のある日本の小説は、読んでいて面倒くさくなってしまう。

もちろん「日本の小説にも良い本があるよ」という意見は多いと思うけれど、なんとなく日本の小説は「共感」に重きがおかれているような気がしてしまう。でも私には日常の少し先にある読書体験よりも、知らないところで一生会うこともないであろう人物がいろいろぶっ飛んで何かしている方が、読んでいてがぜん楽しいのだ。

私は共感が苦手な面がある。例えば昔母親が図書館でよく借りていた西村京太郎のトラベルミステリーを、最初の数十ページ読んだらすぐクライマックスを読んで犯人をはっきりさせてから真ん中を読むという変な読み方をしていた(もしくは読まない)。最後を読めば犯人が分かるし色々省略できるから、その方が落ち着くと考えていたのだ(とにかく大体の話が分かればいいので、細かい部分は気にならない)。

その悪癖は、ロマンス小説を読むようになってからようやく修正することができた。つまり40歳を過ぎてからやっと、話の筋というものを楽しめるようになったのだ。そもそもロマンス小説は基本の展開が一緒だから、途中を楽しめるようにならないと全部が同じ話になってしまう。

ベストセラーとか話題になった小説なんかは、基本的に「どこかいいところがあるんだろうな」ということにして終わらせる。又吉の「火花」は、雑誌に掲載されていたものを途中まで読んだけれど、なんか飽きちゃって全部は読んでいない。又吉が面白くないのではなく、私には彼のエッセイか俳句の本の方が俄然面白いのだ。だから「火花」なのか「花火」なのかを、いつも間違えそうになる。

「読書が趣味」と言えるようなきちんとした読み方をしていないので、これまで自分がどんな本を読んでいるのかを知られたくなかったのだけれど、新年を迎えてふと、「格好つけても仕方ないかな」と思った。ブログで「オススメの○○冊!」なんて書ける人が羨ましいが、これからも私は全く人には薦めるつもりのない本ばかりを読んでいこうと思っている。

 

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「高慢と偏見」に手が届かない私の読書遍歴

たまには読んでいる本について書いてみようと思うのだが、私の読書傾向はかなり偏っている。社会学関係と、それとは全く別にロマンス小説というか、いわゆる「ハーレクイン」を読むことがほとんとだ。

ハーレクインといえば、大富豪とウエイトレスが、偶然(!)出会って恋に落ちるみたいな話を思い浮かべる人が多いと思うけれど、まさにそんな話も読んでいる。ヒロインはびっくりするくらいよく妊娠して、それをヒーローに話せずに姿を消す。いやいやそこは2時間くらいホワイトボードとか使って話し合おうよ!と思うのだが、そうすると話が続かないので、やたらに消息をたつのだ。何年後に偶然(ホントかよ)ヒロインの消息を知ったヒーローが、「なぜ急に姿を消したんだ!」と詰め寄ると、お腹にはヒーローの子供が、もしくは傍らには小さな子供が...って話がこんなにもこじれているのは、明らかにオマエ(ヒーロー)が話を聞かないせいだよ!

  みたいな展開が楽しい。日本の恋愛小説とは違って、ヒーローが本気のドSで、種馬のごときの妊娠率を誇り、しかもやり捨て。最後はハッピーエンドといいつつ、やっぱりステーキとかぶ厚い肉をガンガン食べてると性格が激しくなるのかなーとか考えたりしている。あとヨーロッパとアラブの皇太子多すぎ!(アメリカとギリシャは大富豪ばっかり、ただし社長かCEOでも可)

ハーレクインではとにかくヒロインに行動力がないと話が進まないので(セッ○ス込みで)、その部分にもけっこう驚かされたりする。

でもそういった典型的なハーレクインとは別に、ヒストリカル・ロマンスと呼ばれるジャンルのロマンス小説も好きだ。これは基本的にはイギリスの貴族の恋愛模様で、とにかく階級による規制が厳しくて、決まりごとが山のようにある世界のヒロインたちが頑張るのだが、彼女たちが生存を賭けた恋愛を成就させる話といっても良いだろう。17世紀や18世紀といった時代小説の特徴は未婚女性の人権がないに等しいことだから、彼女たちは自分の人生のために、死に物狂いで結婚相手をハントしなくてはいけない。

分かりやすく言えば、「高慢と偏見」の世界なんだけれど、

これだと私には文学文学しすぎているので、

近い雰囲気のジョーゼット・ヘイヤーの本などを読んでいる。彼女の小説はヒストリカルの原型ともされ、1965年に書かれているのでラブシーンどころかキスシーンもない。しかも頑張って残り2ページまで読まないければヒロイン・フレデリカは自分の恋心にも気がつかないし、そこに至るまでに侯爵が何とか結婚を申し込もうとしている最中にフレデリカが思い悩んでいることといったら、健康増進に効くポークゼリーのことなのだ。でも、そこがよい

あとは子沢山が当たり前だったりする時代なので、3人兄弟どころか4人、5人とか平気で兄弟姉妹がいて、作家は順繰りに兄弟姉妹の恋愛を書いていく。これで終わりか?と思ったら、貴族の庶子父が認知した私生子)の恋愛編があったりするので、読んでいる方としたらスピンオフに次ぐスピンオフ感覚だ。うっかりしていると、友達やいとこの恋愛編が始まる。特に質・量共にレベルが高くて面白かったのが、ジュリア・クインのブリジャートン・シリーズで、8人(!)兄弟姉妹に加えて後日談まであるので、8人がそれぞれのお相手と恋に落ちて結婚し、家庭を持って子供が生まれるまでが楽しめるのだ。

 

そしてこういった物語のヒーローがデフォルトといっていいくらい備えている身体的な特徴が「胸毛」だ。とにもかくにも、皆ふさふさと胸毛をたくわえていて、ヒロインはそれに非常に高確率で官能的なときめきを覚える。この発見を娘に伝えたら、やたらウケていた。

ここまで書いて気がついたのだが、私は10代の時に母親が愛読していた「赤毛のアン」のシリーズを全巻愛読していた。アンの息子が戦争(第一次世界大戦)に従軍した時は、泣いたなー。

私が好むヒストリカル・ロマンス小説は、「赤毛のアン」の古めかしさにプラスして更に、がっつりラブシーンや官能シーンがプラスされている小説なんじゃないかと思う。

しばらく前に、アンを書いたルーシー・モンゴメリの「青い城」というヒストリカル・ロマンスを読んでみたら、官能シーンはないけれどラブシーンがなかなか素敵だったので(ヒロインは29歳崖っぷち未婚女性、美人じゃないけどユーモアセンスに長けている)、やっぱり私の読書の原点は実家の本棚にスラリと並んだ「赤毛のアン」シリーズかもしれないなと思う。

でも、モンゴメリに胸毛描写は無かったと思う。

 

 

 

 

ポイントカードと個人情報についてのジレンマ

去年はろくにブログを更新しない上に、更新したらしたで子育てのグチが多かったので、反省して他の話題を書いてみようと思う。

年末にちまちま掃除をしていたら、なくしたと思っていたポイントカードを発見した。

 

 再発行してまで使いたいと思っていなかったので買い物の際に使うようになったのだが、実は私はポイントカードというものがあんまり好きじゃない。理由はカンタン、自分が日々どこで何を買っているのかを、他人に知られたくないからだ。アレは要するにビックデータを集計するための端末なので、自分のデータを提供する変わりにポイントをもらえると捉えている。

自分の日常の行動をデータ化されて、誰かに知られることに耐えられない、、、といいつつポイントカードが見つかったので、使っているんだけれど。

多分、10代20代の時に母親が私の日常生活を細かく知りたがったことが、ポイントを嫌がる原因だろうと思う。とにかく母親は私が日々どんな友だちと何をして、どこに行ったのかを知りたがる。別に知りたい理由はないらしいのだが、とにかくディテールをやたらに聞いてきた。何とかごまかそうとしても、果敢に(形容詞として正しいかどうかは判断できないのだが)あきらめたりしない。私の母は非常に記憶力の良いタイプの人なので、高校時代の私の好きな人の家族構成や進学先なんかを、10年以上たっても忘れなかった。特に友だちの進学先なんかが大好物で、母はその人が「どういう人物か」に興味があるわけではなく、要はスペックで人を覚えているタイプらしい。

ポイントカードと母の記憶力とが直接関係していないことなんて、今の私は充分解っている。でも自分の行動が自分以外にデータとして蓄積されている事実が、どこか気味が悪いと感じてしまうのだ。それに自分自身のデータを売ってお金に換えているということに、他の人は無自覚なんだろうか?多分私が神経質過ぎなんだろうな。

 

だから私はポイントカードそのものを、なんとなーく作った一枚しか持っていない。でもよく行くスーパーで「ポイントカードをお持ちですか?」と聞かれると、時おりモヤっとした気持ちがしてしまう。(毎回律儀に聞いてくる店員さんと、それを毎回さえぎる自分のこだわりについて)自分でもつまんないことを気にしているのは理解しているのだけれど、そのつまんないことで人間のディテールはできているような気がして仕方がない。

 

 

 

 

(続)子供ってバカー母親の責任は無限大問題について

今週のお題の「2018年の抱負」にも関連してくるのですが、

 

 

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 前回の記事の続きです。

我ながら煮詰まっていたなあと思いますね。実のところ年末は娘を実家に帰省させて、物理的な距離をとっていました。そして文字どおり寝正月をしながら、一年間の親子密着の疲れを癒していたのが実情ですね。実は私自身が自分の母親と必ずしもしっくりいっているとは言い切れない面があるのですが、母が私の育児に関してはあくまで“手助け”というスタンスをとっているので、(というより彼女は70歳過ぎて今なお少女っぽい面があるので、いまさら面倒なことをしたくないとも言える)娘を預かってくれるのには感謝。

娘が計6日間実家にいてくれたおかげで、だいぶゆっくりできました。2018年は、精神的に娘と距離を取ることを抱負というか、課題にしていこうと思いました。

たっぷりとお年玉をもらって帰ってきた娘は使い道に関してかなり悩んでいましたが、結局趣味のお絵かき道具を充実させることに決めたみたいですね。これについても、基本的には大きい額を使う時に私が説明と許可を与えるだけで、お年玉を貯金しろとかも言わないです。昔自分がコツコツ貯めていたお金を丸ごと父親に使われた経験があるので、子供といえども他人のお金の使い道に口を出したくないのです。

娘は小学校3年生の時のお年玉を「名探偵コナン」の40巻くらいまとめて買ったことから始まって、毎年あっという間にお金を使い果たしていました。しかし今年とうとう、大きい額のお金を取っておくと、色々と便利なことを学んだみたいですね。「お金は使うとなくなる」と理解してくれるまでは、長かったなー。

その他には服を買うために古着屋をチェックしに行くらしいです。「モッズコートが欲しい」とか言っているけれど、合わせる服がないから多分買わないそうです。あと早速スッゴイ可愛い下着を原宿の下着屋さんで買ってきたのを見せてもらいました。(フリフリのいっぱいついたピンクのブラジャー)

それからこれをブログに書いたことがバレると本気で怒られるかもしれないけれど、娘は今年、コミケに参加したいそうです。もちろん自分の漫画冊子を作って!だから出展料のためにも、お金を取っておかなくてはいけないらしい。自分の書いた漫画を製本するにも万単位でお金がかかるし、出展料は小規模のコミケでも8000円とかかかるらしいです()。今ピクシブに挙げている自分の漫画をまとめて本にして、コミケ参加をしたいのだそうです。漫画は感心するくらい、本当にこまめに描いているからなー。親としてはまぁ、法律に触れないことならば何をやってもかまわないので頑張ってねとしか言いようがない。

でも実はこんなに熱心に描いている娘の漫画を、私は一度もまともに読ませてもらっていないのです。理由は「見せたくないから」。嫌がることは無理強いしたくないので、冊子になったら読ませてくれることを祈るしかないでしょうね。

勉強は、、、まあ頑張って欲しいけれど、自分のしたこともしなかったことも両方自分に帰ってくることを理解する時期が来たということで、時々抜き打ちチェックをかけていくことになりそうです。