ところでロマンチックを知らせる回覧板は、いつごろ回って来るのか

現実主義な私が日々心に浮かぶことを、ゆるゆると書いていく

できないことはできないという話ー「ダメをみがくー女子の“呪い”を解く方法

久々に本の感想を書いてみる。

 

女オンチ。 女なのに女の掟がわからない (祥伝社黄金文庫)

女オンチ。 女なのに女の掟がわからない (祥伝社黄金文庫)

 

 深澤真紀さんというコラムニストの方が書いたエッセイの中で宣伝されていた、「ポストライムの船」で芥川賞を受賞された津村紀久子さんとの対談本が、対談本好きとしてはなんか面白そうだったので、読んでみた。

 

 女性同士の対談本にしては、褒めあっていないし、分かりにくくマウンティングもしていない、前に読んだ中村うさぎさんと作家の三浦しをんさんとの対談本にテイストとしては近いけれど、あくまで私の印象としては一回りくらい年の離れた津村さんに深澤さんがどこか甘えているように思えたのが、妙に微笑ましかった。(津村さんは姉御肌なところがあると思う)

実は私は津村さんの本を2冊くらいしか読んだことがない。女性作家にありがちなキャラクターの濃いタイプとは真逆な方のようで、淡々とした作風なのは覚えていたのだけれど、ご本人の他人への距離のとり方(特に母親!)には驚いた。基本的にこの本に書かれていることで一番重要なのは、自分の母親といえども気が合わないこともあるので、特に親しく付き合わなくても良いという世間的にはあまり大きな声で言えないことが、はっきりと主張されていることだろう。

そしてここでもう一つ恐ろしいことを書いてしまうのだが、タイトルの一部にも使われている女子の“呪い”を解く方法での呪いをかけたのは誰か?という問題が唐突に浮かび上がる。浮かび上がった問題に対して答えを出してしまうけれど、この呪いをかけるのはもちろん女性自身(または実の母親)だ。

深澤さんは、皮肉でもなんでもない素敵なご両親に恵まれた家庭のお嬢さんで、そのことには心から感謝しているのだけれど、どうしても自分の両親、特に母親とそりが合わないことで結構なトラウマを抱えてきたらしい。母親はいわゆる世間でいうところの毒親(毒になる親)というのではなく、本当に価値観が全く合わないので、何年もあっていないそうだ。(正月に会わないのがポイント)

津村さんは父親を亡くされて母親と弟さんと暮らしているそうだが、(家賃が勿体無いからという関西人テイストな理由)やはりびっくりするくらい母親とはそりが合わないので、ある時共同生活をしてくために、生活の上であまり係わり合いにならないやり方をしていくことを話し合ったそうだ。こちらも親子で相性が悪いだけで、津村さんは母親の良い部分も普通に認めている。実の母娘の生活がシェアハウスで暮らしているように淡々として(この表現2回目)いることに、津村さんの頭脳の明晰さと器のデカさを感じてしまった。(私にはどうしても同居も近居も無理無理!)

そう、私自身も自分の母親を毒親と言いいきるつもりはなく、意外と長い年月がかかってしまったものの「(かなり)相性が悪い」んだろうなぁということを認めるに至った一人だ。

でも「何のかんのいっても親子」とか「いつか分かり合える日が来る」系の人々にとって、この本はちょっとどうかと思うことが書いてあったりする。しかも毒親を持っている人にも、「相性の一言で疎遠にしているだけなのでは?」とか「悪い親ではないのなら、もっと努力したり自分から歩みよったりすればいいのでは?」と言われてしまうかもしれない。

でも私には親子、特に母娘関係に関して「うまくいかない家族関係はあきらめた方がいい」と文中さらりと断言してくれることが大変ありがたかった。なんでもかんでも深い理由を追求しないで、親 や血縁関係を含めて、人間関係そのものをもっと多層的にとらえコミュニケーション能力を磨くことを目指さなくてもOKと言い切る二人の対談は、なかなかに腑に落ちる部分が多かった。「尊敬しあう、高めあう関係」でなくてもいいとか、「なんで歳をとってまで可愛くなくてはいけないのか」などと言い合う二人に「私も、私も!」と手を挙げて発言したい気持ちにさせられたよ。

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 

 

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それから“呪い” に関してもう一言。現代は女性の時代なんて言われているが、そんなに何もかもできねーよ!ということも含まれていると思う。

本に書かれていたことでもあるが、


・女性は共感力が高く

・バランス感覚があり

・世界を救うために反原発運動にも率先して参加し、

・社会をよくしていくことができる

なんてことをフツーに思っている人も(恐ろしいことに)男女関係なくいたりする。私自身性別は女だけれど、共感力が高いタイプでは全然ない。自分の娘にもよく「言ってることがよく分からないので、主語と述語を意識して、もう一回ママに理解できるように話してね」(略して主語、述語で最近は娘に通じる)というのが口癖なくらいだ。

しかしこういった他人との距離のとり方をするタイプの人間は、間違いなく少数派だろうなと感じてきた自分にとって、この二人は会話は物凄いリアリティがあったということだけは、主張しておこうと思う。

 

 

昨日は父の日だったらしい

半年以上前のことになるのだが、実家の母親に「振り込め詐欺」の電話がかかってきたそうだ。「オレだけど、車検のお金が20万いるんだよね。なんとかしてくれない?車がないと仕事に行けないよ」



実際に必要なのは7万円だったとのことだ。これはどういうことかというと、弟が母親に“金を振り込んでくれ”という電話をした。手持ちの金がなかったらしく、ちょっと水増しをしてみたものの、妹に見抜かれてあえなく失敗に終わったという顛末なのである。
この類の詐欺まがいは時々実家で起こる出来事で、今回は上手くいかなかったが見事に弟が金を手に入れる時もある。母親は騙され放題だけれど妹は頭が切れるので、彼女が実家に住んでいる現在、しばらくは弟の振込み詐欺も成功しないと思う。

ところでこれをどうやって知ったかというと、娘のケータイに母親が電話してきて愚痴ったのだ。私は母親と話しをしたわけではない。大体1年以上は、私は直接母親と話をしていない。めんどくさいわけではなく、どんなに忠告しても弟にお金を渡すのをやめないし、その他電話番号を変えろと強く言ったのにグズグズ言うだけで決して実行しないことが分かったので、疎遠にすることにした。疎遠になることで、イライラすることが減ったせいなのか娘は私を穏やかな人と思うようになったらしい。

弟のことだけではなく、電話番号を変えないと近い将来かなり高い確率でトラブルに巻き込まれるのが分かっているのに、それについて何も対策をとる気がないことも理解できた。要はやばいことが起こる前にソフトに距離をとっているというわけだ。(状況を把握して何とかしようとする人物は、実家ではババをひくだけだ)

私の実家ではこれがここ20年くらいのフツーの日常なので、弟のソレにいちいちビックリしたりしないのだが、多分他の家庭では違うと思う。ビックリはしないのだが若いころは、というよりわりと最近まで「フツーじゃない自分の家の常識」について悩んでいたのだ。(私は家族の中では平凡で真面目で補導歴もなければ学校呼び出しもない、親の財布から金も抜いたこともないし、塾もさぼったりしなかったし、そもそも学校にもちゃんと登校していた)最近ようやく吹っ切れたというか、もう私という人は40年以上“こういう形”というか“こういう土台”でやってきたんだから、今さら別の常識に無理にあわせることもできないだろう。それなりにやっていけばいいんじゃないかな、と思うようになった。

そういえばと思い出す、高校生の頃の思い出 - 底辺ネットライターが思うこと

私は怒鳴られたら怒鳴りかえすか面倒だと逃げるタイプだから、この人のことは本気で理解できない。ちなみに私の知り合いで、同棲していた彼氏が金を払わないという理由でボッコボコにした女がいる。少数派?

2016/06/18 18:51

そういえばと思い出す、高校生の頃の思い出 - 底辺ネットライターが思うこと

id:yuriyuri14<それは単なる強者の理屈だと思いますよ。よっぽど強い人でないかぎり、人間は、環境や身体や精神が弱ってると、本当にまともな思考が出来なくなって、簡単にコントロールされるようになりますから。

2016/06/19 05:57


この元になった記事に関しても、割と単純に思った感想を書いただけだったんだけれど、まさかのidコールをされてしまい、「あ、まずいこと言ったらしい」とちょっと反省しました。すいません。

私の実家の環境だと、完全にだまされるやつがアホなだけなので、約束を反古にされまくるなど私は10代20代のころは完全に騙される側だった。体感としては実家で飼っていた猫より大事にされていなかったような(笑)なので、どこかで嫌なら嫌と言えないなら、言うこと聞くより仕方がないと考えているし、それが嫌なのならなんとしても逃げるよりないとも思っている。確かに私もコントロールされまくっていた。何としても逃げるというより遠くへ行ってやる!とどうしてもあきらめきれずに思っていたというより願っていた。もしかしたらどこにもいない神様に祈っていたのかもしれない。頭がおかしくなりかけていた時代もあるので断言はできないが...。逃げられない人間はウチでは誰も助けてくれないので、一人でつぶれるよりない。私の死んだ父親のように。
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これに関しても書いたらまずいかなーと思って書いていなかったことで「妹が当時東京に住んでいて、『帰省に金もかかるし面倒くさい』という理由で葬式に来なかったというのがある。なぜかというと、妹は家族の中での絶対強者なので(元ヤンだ)中学の時に父親をぼこって以来、父親のことを視界から消したとのことで、死のうが何をしようが興味がないので葬式には行かないと決めたそうだ。家族の反応としては、いつもどうり「あの子はしょうがない」でおしまい。多分家族全員常識がないんだろうね。
ちなみに同棲していた彼氏をボコボコにしたのは、ご想像どおり妹である。口ばかりで金を入れないので、電気スタンドの柄で腹をなぐったら、「ゴフって言ってた」らしい。その後部屋から蹴りだしたら廊下にゴロゴロと転がったそうだ。

でもこんな風に暴力的だったのは20年近く前の、妹が二番目くらいにワイルドだった時代のことなので、今は絶対そんなことはしません。姪にも優しいおばちゃんです。念のため書いておきますね。(^^)v

話題を戻すと、cider_kondoさんを不快にさせてしまったようなので、すいませんでした。もしかしたら元記事の方にも不快感を与えてしまったかもしれません。いろいろ弁明してもかえって失礼かもしれませんので、ひっそりとお詫びしておきます。まぁ強いと言えば強いんでしょうね。あんまり自覚ないけど、見たこともない他の家庭の常識を元にした世間の常識は、私にとってスクリーンで映画を見ているようにしか思えないことがあり、何か時々トンチキな反応になるらしい。

タイトルの父の日に内容が全く関係ありませんが、「父の日」というか皆さん父親に思い入れがけっこうあることに少々驚きました。私は「何かしょぼい人だったけれど、最後までしょぼかったなぁ、葬式代くらいなんとかしてから死ねばいいのに」と思いましたね。おしまい。

恋とはどんなものかしら?-続・ベッキーよりよっぽど気になったことがあったという話

前回の続きです。

 

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 もう少し書きたかったこと、前回あまり興味がないと書いたはずのベッキーについての話です。

 

私はベッキーにも不倫にもあまり興味をひかれなかったのですが、彼女とそのお相手の組み合わせを聞いた途端、反射的に思ったことがありました。それは

ベッキーって音楽で成功することを諦めて、“成功したミュージシャンの妻”になる方向にシフトチェンジしたのかな」ということです。

ベッキーが歌手ベッキー♪♯としてCDを出していることは知っていましたが、正直どんな曲だったのかは思い出せません。試しに聴いてみましたが、可もなく不可もなくという印象でした。正直歌手・ベッキ♪♯ーよりタレント・ベッキーの方が何倍も魅力的だと思います。(大体ベッキーの後についている♪♯からしてちょっとダサい・・かな。ファンの方すいません)

タレント・ベッキーは確か音楽番組のMCもしていますよね。でも歌手・ベッキーは音楽番組にしょっちゅう出てくるというわけではないようです。(私が知らないだけ?)

反対にゲスの極み乙女というバンドの川谷絵音という人は、彼の音楽センスというか才能で売れた人です。いわゆるイケメンでもないわけですし、何がベッキーをひきつけて不倫へとつきすすませたのか、どうして“彼”でなければいけなかったのか。だってベッキーは十分美人で努力家で、画面で見る限り賢そうだし、多分モテると思います。

そのベッキーが努力しても手に入れられなかったのが“売れっ子ミュージシャンとしての自分”なのではないかと。

これはあくまで私の勝手な推測ですが、自分が思い描いていたような音楽活動ができないベッキーは、その代わりに売れっ子ミュージシャンを支える彼女そしてのち妻になることで自分自身を納得させようと、折り合いをつけようとしたんじゃないかなぁと。

ベッキーに限らず、人は手が届かないものやどうしようもないことにぶちあたった時、諦める代わりに心酔する、つまり(対人においては)恋に落ちるという方法をとることがあります。

イソップ童話のすっぱいブドウの話のように「あんなもの本当はたいしたことない、欲しくない」といって悪態をつくやり方をする人もいますが、全く反対にキャー素敵!とうっとりして無抵抗になってしまう人もいます。ベッキーはお年頃ということもあり、後者の恋に落ちる方式をとったんじゃないのかなーと思ったわけです。

そうすれば彼女の音楽に対しての思い入れもミュージシャンの妻として音楽に関わりながら彼の音楽活動を支えるといういい感じでおさまるわけですし、そろそろ結婚どうしよう問題も解決できる。ベッキーにとっては一石二鳥だったんじゃないかと想像してしまいました。

でもこれはあくまで私が勝手に考えた“ベッキーはなぜ彼を選んだのか”の推測なので、勿論実際はわかりません。

 

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タレント・ベッキーも歌手・ベッキー♪♯も彼女にとっては大切な自分であり、どちらのベッキーも恋することができる相手が“彼”だったのかもしれませんね。

ベッキーよりよっぽと気になったことがあったという話

文字通り、ネットを賑わしている金スマでのべッキーの謝罪(なんだよね?)とそれを受ける中居君についての雑感ですね。

実は私は、当のベッキーより中居君の見事な采配ぶりに本気で驚いたんですよ。
まず最初に彼はベッキー

・嘘をつくな
・言えない、もしくは言いたくないことがあったら、そのことは言いたくないと言え

と話すわけですよ。これがまずスゴイよ!なんというか現役アイドルの言葉じゃないでしょう。(ちょっと失礼かな)だってアイドルというものは 、そもそも虚像を売る部分があるわけですし。

その後も出過ぎず、引きすぎず、絶妙なところで全体をコントロールしながら、ベッキーが現在の時点で世間から持たれているであろうマイナスのイメージを大分減らして、少なくとも賛否両論のところまで持ってきたし、人によってはプラスイメージすら抱いたと思う。

もう私は中居君の一挙手一投足を食い入るように見ていました(一回しかYouTubeて見てないけど)
番組自体もベッキーのためにもきっちり演出していたけれど、(別撮り、二人きり、日本家屋で囲炉裏っぽいものを囲んで、で も何か食べたりとかせず、ゆっくりしたカメラの動きなど)

昔、私は中居君を「うたばん」という番組で見た時 大変失礼ながら、なんか品のない話し方をする子だろうと思ったことがあるんですよ。だからそれ以降、あんまりちゃんと見てなかったんです。別にジャニーズファンでもないし。

今年SMAP解散騒動があったじゃないですか。詳しいわけではないから、その時はジャニーズ事務所も芸能界も怖いなーくらいの感想しかなかったのだけれど、中居正広という人が、いろんなしがらみを背負いながら、苦いものを飲み込みながらやってきたんだろうなと、なぜかベッキーとの番組でのツーショットを見て感心してしまいました。(悪いけどベッキーにはほとんど興味をひかれなかった。別に特に嫌いとかではない。中居君のおかげで復帰のめどがたったと思うので良かったんじゃないかな)

要は、中居正広という人に知性と懐の深さを感じたということですね。

同時に番組を成立させるためのしたたかさも感じました。でも不快ではない。

ここまで一気に書いていたら、スマホの電源が切れそうなので、いったん終わりにします。
多分続きを書く予定。

友達ができたという話

全くブログを更新しておらず、月の最後の日になってしまい、慌ててしまっている。

タイトル通り、40半ばになってひょんなことから友達ができた。ライン始めちゃったよ。

実は10年以上友達ゼロで辛くて仕方なかったんだけれど、ものすごーく冷静に考えてみたら 私自身としては結構な人間嫌いなんじゃないか、ということに気がついた (まぁ実家と、つまり実の母親や兄弟たちともなるべく関わらないようにして生きているわけだしね)

じゃ、友達いなくでもいーじゃんとひっそり暮らしていたわけですよ。つまりいないならいないで“友達のいない、知り合いだけの人生”を生きていたんだけれど、まさかの展開で突然友達ができたよ。しかも複数。人生って何が起こるか分からないものだと思ったね。
そしてそのことから自分が思っていた以上に他人を信用していなかったことに気がついた。
だから「友達ができたよ、わーい!」みたいに単純に嬉しいわけでもない。「ま、悪くはない」くらいな気持ちなわけなのだが...。

と、同時にこれじゃ、友達ができなかったのも無理はないと理解してしまった。やはり物事には理由があるもんだなと。
まず他人に対して「お前が信用できるという証拠を示せ!」と全く無意識にやってしまっていたわけですよ。そりゃ友達なんてできないよな~。私だってそんなやつ嫌だし。
もし4月を要約するなら、「新しい自分を発見(はあと)」ーその自分が素敵がどうかは不問とする、かなぁ。


それだけです。

パソコンが故障中の時の話

パソコンが壊れた。ただでさえ最近の私は、ブログを更新する意欲が低下しているのに困ってしまう。

物は壊れる人は死ぬ三つ数えて眼をつぶれ

物は壊れる人は死ぬ三つ数えて眼をつぶれ

半年ほどブログを書いてみて、ここを乗り切ればまた半年くらい続くのだろうけれど、乗り切れる気がするようなしないような。というのは、この半年他人のブログを山のように読んでみて学ぶところも多いし、面白い記事も多々あるけれど、反面こんなこと書かなくてもいいのに...と思わされる「他人をあげつらうため」や「自分を高く売りこむため」の記事も一定数存在することが非常によく理解できたからだ。

勿論他人は他人、自分は自分と言ってしまえばそれまでなのだが、そうは言いながらもブログという同じ表現媒体を使っていることで、自分が同じ穴のむじなみたいな気がしてしまう。自分が書いた記事を誰かに読んで欲しいことにおいては重なる部分もあるからだ。
人を惹きつけるためには、過激さやセンセーショナルさが必要なのは理解できるけれど、そのために何万アクセスとか欲しがることが、私自身はあんまり共感できない。そんなにも多くの人々の目が自分に向いているとか想像するだけで私ならめまいがしそうだよ。でもまあ私のブログはそんなに人が来ないので、そもそもそんな心配はないのだけれど。

多分私は「世の中には色々な人がいる」ということの本当の意味を、40才を過ぎてから知ったということなのだろう。ある言葉を知っていることと、それを理解することはイコールではないからね。
とはいうものの「色々な人々の色々な人生」を垣間見るというツールとしてのブログは、なかなかスグレモノなんじゃないかなぁとも思う。

というわけで、ブログを読んでくれる人々に対して、「私の人生にようこそ!」なんてこと思いながらも今は真夜中なので、おとなしく寝ることにします。お休みなさい。

たぶん色々なものにイチャモンをつけている話

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 ランサーズで進行中だった仕事が文字どおり吹っ飛んでなくなってしまい、そのせいなのかブログを更新する気力が著しく低下していました。もともとライター修行のつもりでブログを始めたところがあり、実のところ、日々考えていることをいちいち他人に知られたくない性格だし、そもそも読み専なので、私自身は文章を書いたり発表したりすることにあんまり思い入れがないです。というよりこの世には本も映画も音楽も、私が死ぬまで見たり聞いたりし続けてたとしても終わらないくらいに溢れかえっているのだから、わざわざ文章を増やすこともないかなと思ってみたり、そういう大変そうなことは、私以外の誰かがすればいいと思っているふしがある。(他の人はどういうふうにしてブログを続けるモチベーションを保っているんだろうか?)

そもそも何かを生み出したりしなくても生きてるだけでいいんじゃないの?とここ数年で強く思うようになりましたね。何か私はそんなに素敵な人じゃないし、素敵じゃなくてもいいかなーと。

こんな風に思うようになったのは、本屋に行くと女性向けの本のコーナーに必ずといっていいほど、「貴方の魅力を発見するためには」とか「素敵な日々がなんとか」みたいなタイトルの本が並んでいることの反発からかもしれない。あの辺の本のタイトルを見る時に感じたモヤモヤ感が、しょうもないことを考えるようになったきっかけだと思いますね。それらを見ると(読むと、ではないのがミソ)本を書いた人はどうなのか知らないけれど(書いた人に会ったことがないから判断できない)その本を手にとって読む本人が、もしかしたら何の魅力をない場合だってあるだろうとついつい思ってしまうわけです。

大体その人に魅力を感じるか感じないかは本人が決めることではなくて相手が決めることなんじゃないのでしょうか?でも本人の魅力についてのウンヌンに関しては、さすがに他人に言ったらマズイことなのは承知しているので、リアルでは娘にしか言ったことないですけれどね。(しかも娘ですら若干引いているようです)

まぁいいや。要約すると、なかなか春にならないので暖かくならないし、花粉がそこら辺を飛んでいるのがうっとおしいということですね。(適当)

ところでそんな私が何をして過ごしていたのかというと、読書三昧と、ときどきはてなブックマークです。今の私が気になっているトピックは、以前記事にも書いた人工頭脳(AI)のことと、

 

yuriyuri.hatenadiary.com

 アメリカの大統領選挙です。AIに関してはそんなに積極的にフォローしていないのですが、私は今、ドナルド・トランプ - Wikipedia

に興味しんしんとなっています。

「あれは映画だ」 トランプ氏絶賛に米大統領役H・フォードが反論 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News「トランプ暴言」に海外外交官たちが米国へ異例のイエローカード | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイトそれから町山智弘さんの解説の

miyearnzzlabo.com

この記事は特に面白い、アメリカの危うさを感じさせる素晴らしいレポートになっており、素晴らしいという言葉はこういう時に使うべきだよなーと、一人勝手にブツブツ言っているわけなのです。

町山さんはアメリカの政治を歴史にそって紐解いていきながら、現在共和党が直面している危機を分かりやすく解説してくれています。選挙が加熱して、どうやらアリゾナでは拳銃を持った人が、公園やレストランをうろうろしているらしい。全然大丈夫じゃないじゃん、アメリカ。

トランプ現象はどこまで続いて、どんな風に決着がつき、そしてその結果はアメリカという国にどんな爪あとを残すのでしょうか。今年の私の春は、ドナルド・トランプと花粉でいっぱいいいっぱいのようです。読んでいた本の感想は次回にということで。